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ドイツサッカーは日本サッカーの父

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このブログ記事では久しぶりにドイツサッカーに関する記事を書きます。写真は2010年にボルシア・ドルトムンドに入団が決まった時の香川とクロップ監督。この後、香川が大活躍するとは当時は予想できなかった。
 

第二次大戦後、1960年に東京オリンピックが開かれることが決まった時に、コーチを派遣してくれたのは同じ敗戦国の西ドイツだった。 

 


今はコロナ流行という辛い時期だが、9月末になってヨーロッパでは各国のリーグ戦が盛んに行なわれており、日本ではスター選手が多いイングランドのプレミアリーグ、スペインのリーガ・エスパニョーラが人気がある。セリエAもかなり低迷しているがまだ人気がある。だが、これらの3大リーグがいかに人気があろうとも、日本サッカーの父がドイツサッカーであることは紛れもない事実であり、ドイツサッカーとブンデスリーガなしでは日本サッカーの発展はあり得なかった。
 
 
ドイツサッカーが日本サッカーの父となったのは、やはり、第二次大戦の同盟関係にも関連している。1964年に日本でオリンピックを開催することになった時に、その4年前の1960年に、日本サッカー協会はサッカー日本代表チームを強化するために、多くのサッカー先進国に監督とコーチの派遣を依頼した。ところが、僕が知る限りでは、1960年というと、まだ、第二次大戦時の遺恨が残っており、さらに、日本のライバルの韓国などの妨害と、
「日本人は野球は得意だが、サッカーは下手だ」
という偏見などもあって、一番良い回答をしてくれたのは、やはり、第二次大戦時の同盟国だったドイツだった。
 

 

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ドイツサッカー協会は、デットマール・クラマーという35才の、現役を引退したばかりのコーチを日本に送った。彼は戦争中はドイツの空挺部隊の兵士だった人物であり、日本に来る前に、新渡戸稲造の書いた「武士道」などの日本人に関する本をたくさん読んで、よく研究してきていた。彼がイメージしていた日本男児というのは、“勇敢で恐れを知らない侍の子孫”というものだったらしい。ところが、日本代表のサッカー選手の練習を見ると、クラマーはものすごく失望したという。基本が全然出来ていないのに、無理をして高度なサッカーをプレーしようとしていたので、クラマーはまず基本から教え直すことを決めた。上の写真がデットマール・クラマー氏。
 
特に、エースストライカーだった釜本への指導は厳しく、
「右足、ワールドクラス。左足、ハイスクール」
というようなキツイことを何度も言った。まあ、この辺の厳しい指導については、何度もテレビなどで取り上げられているので、よく知っている人は多いと思う。そのような厳しい指導が実を結び、東京オリンピックでは日本はアルゼンチンを破ってベスト8入りをして、次のメキシコでは銅メダルを獲得し、釜本は得点王に輝いた

 

「日本代表を強化するためには、必ずプロサッカーリーグを作らないといけない」ということを、クラマーは日本サッカー協会に提言した。

 

そして、1993年に日本にJリーグが誕生したのは、クラマー監督の提言が大きな原因だった。クラマーは日本を離れる前に、「日本代表を強化するためには、必ずプロサッカーリーグを作らなければならない」と言い残していた。のちに、クラマー氏はバイエルン・ミュンヘンの監督となって、ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーなどを擁して、ヨーロッパのチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)を2連覇したが、その時のインタビューでも、
「私の人生の最高の瞬間は、日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した時です。私はあれほど死力を尽くして戦った選手達をかつて見たことがない」
と答えた。この話をする際には必ず目に涙を浮かべて語る。
 

 

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奥寺康彦が1978年から1986年までブンデスリーガでプレイできたのは、ヴァイスヴァイラーとレーハーゲルという2人の有能な監督に認められたからだった。

 

さらに、もう一つの日本とドイツのサッカーの絆を紹介する。
 
日本人プロサッカー選手第1号となったのが、奥寺康彦選手ということは有名だが、この奥寺選手の才能に惚れ込んだ1FCケルンのヘネス・ヴァイスヴァイラー監督も、第二次大戦中はドイツ兵として戦った人だった。ヴァイスヴァイラー監督はドイツに合宿で来ていた奥寺のプレーを見て、
「ブンデスリーガで絶対に成功する」
と確信して、周囲の反対を押し切って獲得することにした。ヴァイスヴァイラーの思っていたように、奥寺は1年目から活躍して、デビューイヤーだった78年のケルン優勝に貢献して、その翌年のチャンピオンズカップでも活躍してケルンは準決勝まで進出した。つまり、奥寺を越えるためには、日本人選手はチャンピオンズリーグの決勝にスタメンで出ないといけない。写真上がヘネス・ヴァイスヴァイラー。


 
だが、ヴァイスヴァイラーがアメリカのチームの監督に引き抜かれると、次の監督は奥寺を起用しなくなり、奥寺は活躍の場を求めて、ヘルタ・ベルリン、さらには、ヴェルダー・ブレーメンに移籍した。ここでも奥寺は監督に恵まれた。ブレーメンのレーハーゲル監督が、ヴァイスヴァイラーと同じように奥寺の才能を見抜き、彼を左サイドで起用し続けることに決めたのである。
「ドイツ人の選手で、奥寺以上の選手はいるかもしれない」
という反対は当然ながらあったが、レーハーゲルは奥寺を起用した。

 

レーハーゲルの采配は当たり、奥寺は左サイドで大活躍をして、下位に低迷していたブレーメンは優勝争いをするほど強くなった。レーハーゲルは、
「オク(奥寺)1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」
と絶賛した。
 

 

youtu.be

 

上の動画はドイツ・ブンデスリーガのこれまでのヘッデイングゴールのランキングだが、なんと1位は他の多くのスター選手を押しのけて日本人の奥寺が決めたゴールである。このゴールのイメージから奥寺は「東洋の黒ヒョウ」と呼ばれるようになった。
 

 

このように、日本サッカーの躍進を一番支えたのは、何と言ってもドイツです。そして、恐らく、その次がブラジルでしょう。最も、ブラジル人選手の何人かは、経済的に安定した日本でプレーするのを望んだのだ、いわゆる、ジャパンマネー目当てだったのだと思います。一方でJリーグ発足時に来日したドイツのスター選手のリトバルスキーは、親友の奥寺の頼みということでジェフ・ユナイテッド・市原(現在の千葉)でのプレイを決めました。お金が目当てではありません。