Deutschland-Lab

Deutschland-Lab

歴史や文化、スポーツなどドイツに関する情報まとめサイト

ポーランド人が親日な理由は、ポーランド建国の父の子孫が日本人だから。

f:id:novaluewriter:20201023132651j:plain

 

19世紀から20世紀の日本とポーランドの関係を見ると良好なものではなかったが、「ポーランド建国の父」のユゼフ・ピウツスキの子孫が日本で日本人として住んでるという事実がある。

 

 ポーランド人が異常なほど親日な理由とは何だろうか?

ポーランド人というのはすごい親日家が多い。第二次大戦の時に日本はポーランドをほとんど無視してヒトラーのドイツと軍事同盟を結び、ソ連とも日ソ中立条約を結んだのにもかかわらずである。1939年9月に第二次大戦が始まった時に、ポーランドを強制的に併合して地図から消し去ったこの2国と条約を結んだのは、当時の外相だった松岡洋佑の強い意向だった。反イギリスユーラシア構想で、日本、ドイツ、イタリア、ソ連の4国が同盟を結んで、日本の南方進出の邪魔をしている植民地(マレー、シンガポール、ビルマ、インドなど)を多く持っていたイギリスに対抗しようという考えだった。だが、当然、共産主義のスターリンとの本当の同盟など成立するはずもなく、ヒトラーの率いるナチスドイツがソ連に攻め込んで独ソ戦が1941年6月に始まったことで、反イギリス構想は一気に崩れた。

その後、松岡は公の場所にはあまり姿を現さず、アヘン中毒の生活を送っていたといわれている。戦後、東京裁判の頃にはすでに死の病にかかっており、独房生活には耐えられないと判断されたので逮捕されなかった。

 

ところで、それほど第二次大戦では日本政府と軍部に無視されたポーランドだが、なぜか、国民はすごい親日だという。そこには日本人の多くが知らないが、日本に興味のあるポーランド人なら誰もが知っている事実がある。

「ポーランド建国の父」といわれるユゼフ・ピウツスキは陸軍元帥で政治家であり、1926年に5月革命を起こして首相になって独裁政権を樹立して、ポーランド共和国をの成立させた。ピウツスキが独裁政権にもかかわらず国民に人気があったのは、第一次大戦後にソビエトから独立するためのソビエト・ポーランド戦争で大活躍をしたので、仮に選挙をしてもピウツスキが圧勝する確率が高かったからである。写真上が、ポーランドの大統領官邸の近くに建つユゼフ・ピウツスキの銅像。

 

 

f:id:novaluewriter:20201023132639j:plain

 

ユゼフ・ピウツスキの兄のブロニスワフはロシア帝国からのポーランド独立運動を行っていた時に樺太に流刑になり、そこでアイヌ人研究に没頭して日本国籍を持つアイヌ人女性と結婚した。そして、2人の子孫が今も日本に住んでいる。

 

一方で、彼の兄のブロニスワフ・ピウツスキは世界的にも有名な文化人類学者で、特に北海道、樺太に在住していたアイヌ民族研究で有名な方なのである。そして、ブロニスワフはアイヌ人の妻と結婚して子供たちは日本国籍を取得した。ブロニスワフはポーランド建国のための政治活動も行っていて、東京で大隈重信、二葉亭四迷などども交流した。弟のユゼフの子孫は娘しかいなかったので、子孫は既に娘の結婚と同時に絶えてしまったが、兄のブロニスワフの日本人の子孫は今でも日本人として日本で生活してるという。

つまり、「ポーランド建国の父」の名門ピウツスキ家の唯一の子孫は日本人となって今でも日本で生活を送っているのである。この事実は、もちろんポーランド建国の英雄の話なので、多くのポーランド人が知っているという。だが、日本人でこの事実を知っている人はほとんどいないようであり、世界史日本史に詳しい(?)僕も5年ほど前にネットで知ったばかりだ。

「ポーランド建国の父」ユゼフ・ピウツスキの兄のブロニスワフがアイヌ民族研究に没頭した経緯は、元はというと弟と同じような政治活動をしており、19世紀後期にポーランドを占領していたロシア帝国を追い出すための反政府運動を行っていて、それで逮捕されて樺太へと流罪になったことから始まる。そこからブロニスワフのアイヌ民族研究が始まった。流罪の刑期が終わった後もブロニスワフはアイヌ人、満州人、日本人などへの興味から故郷には帰らず、樺太、北海道などで民俗学研究に没頭していった。そこで、日本国籍を持っていたアイヌ人女性と結婚したのである。写真上は北海道の白老町に立つブロニスワフ・ピウツスキの銅像。

 

詳しい説明はウィキペディアにある。ヨゼフ・ピウツスキの説明。

 

ja.wikipedia.org


日本との関係

兄のブロニスワフと共に、ユゼフも日本と深い縁があった。前述の通り、日露戦争下の東京へ、ポーランド軍蜂起の計画書や日本とポーランドの同盟案の覚書を持参してきた。政府による大規模な協力は得られなかったが、日本に対しては好印象を持ち続け、後の独裁者の地位にあった1928年には、日露戦争時に軍功のあった日本軍将校たち51名に勲章を授与している。

ピウスツキ家の男系はポーランドでは絶えており、日本にのみいる。彼らはユゼフの兄ブロニスワフ(樺太で樺太アイヌの女性と結婚)の息子の家系で、現在横浜に住んでいる。

 


つまり、「敵の敵は味方」ということで、ロシア帝国からのポーランド独立のために戦っていたピウツスキ兄弟は、ロシアと戦争をしていた日本を頼ったのである。そこから、ピウツスキ兄弟はロシアに戦争で勝った日本人に感謝するようになった。しかしながら、横浜に住んでいるピウツスキの子孫の方は、現在のヨーロッパの複雑な政治情勢に巻き込まれることを嫌っており、 「静かに普通の日本人として生活したい」と語っており、日本とポーランド間の文化交流の催し物以外には姿を見せないようだ。

 

ユゼフ・ピウツスキは1935年に亡くなったが、4年後に起こった第二次大戦でナチスドイツとソ連によってポーランドは分割されてしまった。もしピウツスキがもう少し長生きしていたら、この悲劇は起こらなかったかもしれない。

 

それで、このピウツスキ兄弟の話がドイツと何の関係があるのかというと、ヨゼフ・ピウツスキは1935年に68歳で亡くなったが、これがポーランドのその後の悲劇的な運命を決めてしまった。当時はポーランドの西のドイツでは1933年にヒトラーのナチス政権が誕生して、東のソ連はスターリンの独裁共産政権だった。もし、ピウツスキがあと10年ほど生きていたら、ナチスドイツのヒトラーとソ連のスターリンという2人の巨大な独裁者に挟まれたポーランドの難しい状況を、英仏との同盟関係を深めるなどして、なんとか乗り切ることが出来たかもしれない。ピウツスキのちょっと早かった死去はポーランド国民にとっては本当に不幸なことだった。

 

今でもポーランド国民の中には、「ピウツスキがあともう少し長生きしていたら、ヒトラーのドイツにもスターリンのソ連にも占領されなかったかもしれない」と悔やんでいる人が多いという。それほど、ユゼフ・ピウツスキはポーランドでは偉大な人であり、彼の子孫が日本人であるというのは日本人にとっても驚くべきことだった。