- 1944年12月に起こった「「バルジの戦い」の激戦地だった、ベルギーのバストーニュ市で撮影した写真を紹介する。
- バストーニュ市は「バルジの戦い」の激戦地だったことを観光資源としており、市の中心部にはバストーニュの戦いで活躍したアメリカ軍の追悼記念碑と博物館が建っている。
- ノルマンディに行ったことがある友達が言っていたが、ノルマンディにもアメリカ軍の記念碑が多くあり、歴史が浅くて「正義の味方」という気質が強いアメリカ白人は、世界各地に米軍による解放記念碑を建てるのが好きである。
1944年12月に起こった「「バルジの戦い」の激戦地だった、ベルギーのバストーニュ市で撮影した写真を紹介する。
今日(12月16日)はドイツ軍が「ヴァハト・アム・ライン作戦」(ラインの守り作戦)を発動させて、ドイツとベルギー国境地帯で「バルジの戦い」が始まった日なので、激戦地となったベルギーのバストーニュ市の写真をアップします。これらの写真は、僕が2012年9月にベルギーのバストーニュ市を訪れた時に撮影したものです。写真上はバストーニュ市の中央広場にあるM4シャーマン戦車。この戦車はバストーニュでのドイツ軍との戦いで最初に破壊されたものです。
1944年12月16日にドイツ軍は西部戦線で最後の賭けといっていい大攻勢に出た。「バルジ大作戦」(ドイツ軍の作戦名は”ラインの守り”)として有名な攻勢である。2個機甲軍(第6親衛隊機甲軍と第5機甲軍)が主力となってアルデンヌの森を守るアメリカ軍に奇襲をかけて、初めは連合軍を大混乱に陥れた。12月22日には第5機甲軍はバストーニュの町を包囲して、ドイツ軍は町を守るアメリカ第101空挺師団に降伏を勧めたが、米軍のマッコリーコフ准将は[Nuts!](ふざけるな!)と回答したことは有名な話。
バストーニュ市は「バルジの戦い」の激戦地だったことを観光資源としており、市の中心部にはバストーニュの戦いで活躍したアメリカ軍の追悼記念碑と博物館が建っている。
写真下はマッコリーコフ准将の銅像。この銅像もバストーニュ市の中央広場にある。銅像には准将が率いた第101空挺師団の師団マークも描かれている。
町はドイツ軍機甲部隊に包囲されたが、第101空挺師団がバストーニュの町を守っている間に、クリスマス以後にパットン将軍の率いるアメリカ第3軍が北フランスから猛反撃をかけてバストーニュの町を解放した。アメリカ軍側ではこのバストーニュ解放の戦いを劇的なドラマとして宣伝している。バストーニュ市は今日でも多くの軍事博物館と記念碑を建てて、町の観光資源としている。このパットン第3軍の奇跡的なバストーニュ解放については、1970年の映画「パットン大戦車軍団」によく描かれている。
写真下はパットン大将の顔が描かれた記念碑。この記念碑はバストーニュの中心部からちょっと離れた広場にあった。パットン大将は映画やドキュメントで描かれているように、[My dear son of a bitch]「親愛なるクソッタレ野郎」とスピーチで言ったり、死体が累々と横たわる戦場を見て「俺は戦争が大好きだ!」と叫ぶような乱暴な将軍だったが、軍隊の将軍というのはパットンのような単純で乱暴な性格の人物が向いてることを表している。
パットン第3軍の逆襲がドイツ軍の「バルジの戦い」の攻勢を終わらせたことになるが、しかしながら戦後の冷静な分析によると、バストーニュの町を包囲した時点で既にドイツ機甲部隊の戦力は枯渇していて、燃料も弾薬も限界であり、別にパットンの率いるアメリカ第3軍が猛反撃をしなくても、ドイツ軍の攻撃が失敗していたことは明らかだったことがわかっている。
ノルマンディに行ったことがある友達が言っていたが、ノルマンディにもアメリカ軍の記念碑が多くあり、歴史が浅くて「正義の味方」という気質が強いアメリカ白人は、世界各地に米軍による解放記念碑を建てるのが好きである。
写真下はバストーニュの中心部から1キロほど離れた場所に建つ、バストーニュの戦いでのアメリカ軍戦死者の追悼記念碑。ノルマンディに行ったことのある友達も言っていたが、ノルマンディにもアメリカ軍の記念碑が多いそうだ。アメリカという国は歴史が250年ほどしかなくて「正義の国」気取りが強いので、アメリカ軍が過去に勝利を収めた世界中の場所に記念碑を建てるのが好きなようである。そういう特にアメリカ白人の気質は、ハリウッド制作の戦争映画を見ればよくわかるだろう。(苦笑)