- 1902年1月に起こった陸軍の八甲田山雪中行軍遭難事件の反省から、日本でのスキーの歴史は始まった。
- 日露戦争後、1911年1月に来日したオーストリア=ハンガリー帝国のフォン・レルヒ少佐が、陸軍将校たちにスキー技術を指導した。ここから日本でのスキー競技は本格的に始まった。フォン・レルヒ少佐は「日本スキーの父」と呼ばれている。
- フォン・レルヒ少佐と交流していた「プロペラ髭」で有名な長岡外史中将は、レルヒから欧米では民間人もスキーを冬の娯楽として楽しんでいると聞いた。「日本も欧米に追い付くために民間人もスキーを行うべきだ」と長岡は言い、新潟県妙高高原の軍用ゲレンデの一部を民間に開放した。だから、妙高高原は「日本スキー発祥の地」になっている。
1902年1月に起こった陸軍の八甲田山雪中行軍遭難事件の反省から、日本でのスキーの歴史は始まった。
前のブログ記事では、猪谷千春氏が1956年にイタリアのコルチナダンペッツオで開かれた冬季五輪で銀メダルを獲得したことを書いたが、それでは日本におけるスキー競技とはいつから始まったのだろうか?
簡単に言えば、1902年1月末に映画「八甲田山」に描かれているように、青森歩兵第5連隊が冬季八甲田山の雪中行軍演習で遭難して、199名が亡くなるという冬季山岳史上最悪の事件が起こった。これが全世界に大ニュースとなって広まり、それを聞いたノルウェーの王様が「とても悲しい出来事だ。でも、なんでスキーを使用していなかったのか?スキーを使用していれば、そんな大惨事にはならなかったはずだ」と仰せになられて、日本にスキーを送ってくれた。ここから日本のスキーは始まったと言われている。写真上は映画「八甲田山」のスチール写真。彼らの悲劇的な死は決して無駄にはならずに、この後、日本陸軍は冬季のスキー部隊の編制と運用について真剣に取り組むことになった。
日露戦争後、1911年1月に来日したオーストリア=ハンガリー帝国のフォン・レルヒ少佐が、陸軍将校たちにスキー技術を指導した。ここから日本でのスキー競技は本格的に始まった。フォン・レルヒ少佐は「日本スキーの父」と呼ばれている。
以下、ウィキペディアの説明を引用。
日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代からだが、1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)において、オーストリア陸軍少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ(テオドール・エドレル・フォン・レルヒとも)が陸軍第13師団に着任し、歩兵第58連隊の営庭を利用して堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員を含む軍人に技術を伝授したことが、日本における本格的なスキー普及の第一歩とされ、かつ、日本におけるスキー発祥と言われている。この史実にちなんで、全日本スキー連盟では2003年に1月12日を「スキーの日」と制定した[9][10]
レルヒは日本陸軍の長岡外史中将が率いる第13師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八(後に辰豊と改名)の経営する旅館「高陽館」に寄宿して高田歩兵第58連隊に着任、その翌年の1912年には北海道旭川第7師団に着任した[10]。
付け足せば、日本陸軍にスキーの運用とスキー部隊の創設のために来日したオーストリア・ハンガリー帝国陸軍のレルヒ少佐が「日本スキーの父」と言われている。そして、レルヒと交流が深かった「プロペラ髭」で有名な長岡外史陸軍中将はレルヒから、「ヨーロッパではこのスキーを軍人だけでなくて、民間人も冬の娯楽として楽しんでいる」という話を聞いた。この当時、長岡は第13師団(司令部は新潟県の高田市)の師団長であったが、「スキーは軍事用に運用するだけでなく、軍のゲレンデを民間人にも開放して、民間人も娯楽としてスキーを行うべきだ。欧米に追い付くためにも必要なことだ」と言い、第13師団が使用していた妙高高原ゲレンデを民間にも開放した。ここから、日本の民間人も自由にスキー競技ができるようになった。だから、今でも新潟県妙高高原は「日本スキー発祥の地」となっている。
フォン・レルヒ少佐と交流していた「プロペラ髭」で有名な長岡外史中将は、レルヒから欧米では民間人もスキーを冬の娯楽として楽しんでいると聞いた。「日本も欧米に追い付くために民間人もスキーを行うべきだ」と長岡は言い、新潟県妙高高原の軍用ゲレンデの一部を民間に開放した。だから、妙高高原は「日本スキー発祥の地」になっている。
写真上の「プロペラ髭」のおじさんが長岡外史中将である。この方はかなりリベラルなメンタルの持ち主であり、レルヒがスキーを教えるために来日してスキーを日本陸軍に教えると、スキー競技を軍で独占せずに民間人も楽しめるようにすぐに第13師団が使用していた妙高高原スキー場の一部を民間にも開放した。
長岡は日露戦争では大本営陸軍幕僚として作戦と人事の立案を行い、旅順要塞攻防戦の際にはまだ陥落していない旅順要塞の上に気球をあげて、気球から旅順湾内の偵察を行う案を出して、それを実行させたりしている。
2009年から2011年の年末にかけて上映された大河ドラマ「坂の上の雲」では的場浩司が演じたが、上の写真のような最長70センチのプロペラ髭の将軍だったので、「的場さん、ふざけているのでは?」などと誤解して人がいたかもしれない。でも、長岡中将はこのプロペラ髭を本当に生やしていて自慢しており、明治天皇も出席されいてた大本営会議に出る時もこの髭を生やしていたという。
日本の戦前戦中の軍人というとイメージが悪いかもしれないが、少なくとも日露戦争から大正時代の頃の軍人はまだかなり民主的であり、長岡外史中将のようなリベラルな考えの軍人がいたから、日本のスキーの歴史は100年以上前に既に始まっていたといえる。
長岡外史中将のウィキペディアの説明。日本におけるスキー発祥と飛行機の開発に深く関わったという、立派な軍人であったことがわかる。