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10年前に東日本大震災があった時の様子

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今は東日本大震災から10周年の追悼の時なので、10年前に他のブログに書いた記事をここにアップして当時のことを思い出すことにする。

 

 

今は特に仙台と岩手、宮城、福島県では東日本大震災から10周年の追悼ということで、色んな行事をやっているので、それについての記事を書こうと思う。

 

このブログ記事には、当時僕がGREEブログに書いていた記事をアップしようと思う。写真上は津波が襲った後の仙台港の様子。

 

 

「3月12日夜の日記」


僕は仙台市民ですが、幸い、僕の住んでる青葉区の仙台城近くの地域は、大した被害がなくすみました。ですが、電気が通じてネットが出来るようになったのは、今日の午後10時ごろです。約30時間の間、停電していました。携帯から何か書き込むべきだったのでしょうが、家族、友達、同僚の安否確認に追われていて、ブログは後回しになりました。

ですが、仙台市の海岸地域には、地震の直後に10メートルの津波が押し寄せたので、多くの人が波にのまれて亡くなったそうです。夏には海水浴客でにぎわう荒浜には、200~300ほどの遺体が打ち上げられたそうです。

それ以外の、宮城県、岩手県の沿岸の町は津波により、ほぼ壊滅状態です。リアス式海岸の岩手県の町の中には、まだ、連絡が取れない所があります。通信設備が全て津波で流されたので、連絡手段がない模様です。

今も仙台は余震が続いていて不安ですが、やっと電気が通じたので、ご飯も作れるし、暖かい風呂にも入れて、暖房もつけることができます。少しづつですが、普段の日常生活を取り戻しつつあります。

あまり、考えたくないことですが、今までの報道から推測すると、この地震と津波による死者は、最終的には少なくとも2千人、多ければ5千人ほどになりそうです。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。


「3月13日夕方の日記」


再び、悲しいニュースが入っています。宮城県警は、
「今回の地震と津波による死者が、宮城県内だけで1万人を超えるだろう」
と午後4時ごろに発表しました。これは、行方不明者扱いだった南三陸町(旧志津川)の1万人の方々を、恐らく生存の可能性はほとんどなしと判断したからのようです。

僕はここに1回行ったことがありますが、典型的なリアス式海岸の町で、山が海の近くに迫っており、狭い平野部に住民は住んでいて、主に水産業で生活している人がほとんどでした。そのような狭い平野と周りの山を探しても、ほとんど人が見つからないということは、津波の際に住民は波にさらわれて沖へと流されてしまったと判断するしかない、という結論に対策本部では判断したようです。

さらに、隣の岩手県でも、陸前高田市で1万7千人、大槌町で1万人ほどが行方不明となっていますが、救助隊が懸命の捜索活動をしています。ですが、とても辛いことですが、現実的に考えると、南三陸町と同じような狭いリアス式海岸の町の平野部と高台を探しても、ほとんど人が見つからないということは、恐らく、津波の際に波にのまれて沖へと流されてしまったとしか考えられません。僕は、陸前高田にも行ったことがありますが、南三陸町と同じようなリアス式海岸の町でした。岩手県警が両自治体についても、
「行方不明者が生存している可能性は、極めて低いと判断せざるを得ない」
という声明を出すのは、時間の問題と思われます。

もちろん、このような自治体に家族、親戚、知り合いが住んでいる人たちにとっては受け入れがたい現実です。奇跡的に何人かが生存していることを神様にお願いすることしか、今の時点では出来ることはありません。

 

オーストリア人の友達Wは本業はアメリカの大学教授なのだが、夏の間は東北大学で研究活動をしている。それでアメリカにいる彼からメールが届いて、「福島原発はチェルノブイリ原発のようになるだろう」と教えてくれた。

 


「3月15日夜の日記」


かなりショッキングな事実を書きます。

僕の友達で、東北大学物理学部で研究をしているオーストリア人、大学時代に物理学を専攻した会社の上司も、原発の爆発事故はかなり危険な状態だということを言っていました。彼らの専攻は物理学でもちょっと学科が違いますが、同じ科学者の目から見て、次のような意見を述べています。
「日本の政府は、国民にパニックを起こさないように嘘の発表をしている。福島の原発はすでに外壁が破壊されてしまっているので、もはや、アメリカのスリーマイル島、旧ソ連のチェルノブイリ原発の爆発のような状況になっている。どんな対策をしても焼け石に水だ。もう、なるべく原発から離れるか、厳重な防護服に身を包んだ多くの科学者が原発を止める作業をするしかない。

旧ソ連のチェルノブイリ原発の大爆発の時は、神風特攻隊か爆弾三勇士のような、死を覚悟したソ連兵数百人が、人海戦術で懸命に砂と水をかけて放射能漏れを防いだ。当然、この作業をしたソ連兵たちは全員が被爆して、数日後には亡くなった」

彼らの話は、とても悪い冗談とは思えないので、福島の原発の放射能漏れは、すでに止める術がないようです。できれば、日本政府の発表よりも、英語で書いてある海外の原子力発電専門家の見解を読む方が、より真実に近づけるようです。ですから、僕も東北大学にいる科学者の意見と海外のニュースサイトを冷静に読んで、わかったことがあったら、自分のブログでみなさんにお知らせしようと思います。決して、狼少年のデマにはならないように気をつけます。

また、このGREEのサイトの中にも、原子物理学を大学か大学院で専攻している方はいると思うので、その方々は、是非、躊躇せずに自分の意見をブログに書いてもらいたいです。

ひょっとしたら、数日後には、
「原発から100キロ以内に住む人々は、絶対に外出しないように。止むを得ず外出する時は、放射能を防げる防護服を必ず着用するように」
という警告が出るかもしれません。とにかく、日本の政府と外国メディアの報道と、どちらが正しいのかをよく見極める必要があります。

 

 

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僕は当時は母と同居していて、敷地内のもう一軒の家に住む兄とは断絶状態だったが、「家族3人で力を合わせて、震災を乗り切ろう」という思いが芽生えた。



それで、僕は当時は亡くなった父が3世代同居を考えて建てたまあまあ大きなマイホームに、母と2人で生活していた。父が長生きすることを考えて建てたのだが、その父は家を建ててから3年後に胃がんで亡くなってしまったので、僕が代わりのような感じで住んでいたのだった。兄は近所に住んでいたが「余震が心配だ」ということで、一緒に住むようになった。僕は何度も書いているが母と兄とはあまり仲が良くなかったが、地震が起こってから数か月間は、「みんなでこの困難を乗り切ろう」という気持ちが強くあった。


地震が起こってから約2週間は、仙台市中心部で多くの市民が利用する「ダイエー」(今はイオンになっている)に行っても、2時間並んで1人当たりおむすび2個と麦茶2個しか買えないという状況だった。それで、開店から約1時間ほどでおむすびと麦茶の販売は終わってしまった。仙台市とその周辺部のどこのスーパーに行ってもこんな状態だった。写真上は震災から1週間ほど後の「ダイエー」前での食料品の買い出しの様子。


それで、2週間以上経つと関西地方などから遠征して販売していた業者がいたので、1000円以上する高級カレーのパックなどが買えるようになった。でも、安い食材はあっという間に売り切れていた。食パンなども、あまり人が来ないような路地裏のコンビニに行けば見つかることがあった。それで、1か月近く経ったら東北自動車道も東北本線も全線開通して、仙台市は「陸の孤島」状態から脱出することが出来た。



でも、宮城県、福島県から首都圏に避難して生活していた小学生、中学生などが避難先で仲間外れにされたりいじめられたりとか、日本国民が全員で助け合うべき時に、モラルを疑われるようなくだらないこともあった。