- 僕の父は銀行員で転勤族だったので、幼馴染の友達はいないはずだが、1人だけ父親の勤務先が同じ銀行という幼馴染の友達が1人だけいた。その友達Fは東大大学院にまで進んだ。
- ところが僕と幼馴染のFは好きな教科と趣味が違うので、あまり共通点がなくてだんだんと疎遠になっていった。同じ小学校に通っていた時もケンカすることがよくあった。
- 2人とも高校は学区の関係で仙台市内の違う進学校に進んだが、Fは1年生の時から大学受験のことばかり話していた。だから、幼馴染だったけどFと遊んでも会話が面白くなかったので、あまり遊ばなかった。
- Fとは幼馴染というだけでなくてオカルトレベルの奇妙な縁があり、小学校6年生の時に2回くじ引きでクラスの席を決めたら、2回とも隣になったことがあった。
- 僕の唯一の幼馴染だったFについて記事を書いたけど、僕にはFのような「勉強でも運動でも妥協しない」という生き方は無理。学生時代にすごく頑張ったのでFは大手物産会社に入れたけど、50歳近くになって彼は本当に幸せなのか?
僕の父は銀行員で転勤族だったので、幼馴染の友達はいないはずだが、1人だけ父親の勤務先が同じ銀行という幼馴染の友達が1人だけいた。その友達Fは東大大学院にまで進んだ。
今日のブログ記事でも僕の人生であった面白い話を書こうと思います。ドイツに関する話は、また別の機会に書きます。(苦笑)
僕の父が大手銀行勤務だったので、小学校卒業までは転勤が多かったことは既に何度か書いた。でも、松山で生まれて、名古屋、東京、広島、西宮と小学校時代に転勤をして今は仙台に住んでいるのに、僕には幼馴染が1人だけいる。そして、タイトルにも書いたように、彼は東北大学農学部から東京大学農学部大学院に進んだ。今は大手物物産会社に勤務していて、ロンドンで妻と子供と暮らしているらしい。何気なく彼の名前FM(イニシャル)を検索してみたら、彼のフェイスブックのアカウントがヒットして、それでわかったのだった。写真上は僕が今住んでる仙台の街並み。Fの家族も同じく仙台に住んでる。
転勤族の息子だったのになんで幼馴染がいるのかというと、簡単に説明するとFの父親と僕の父親が2人とも農林中央金庫に勤務していたから。父はもう故人だから別に銀行名を出しても差し支えないだろう。まず、僕とFは2人とも父が松山支店に勤務している時に生まれて、その後、また2人が東京本店勤務になったので目黒にある同じ社宅に住んだ。さらに、僕が小学校5年の3学期に、父が東京本店から広島支店を経て大阪支店に転勤になった時に、Fの父は既に大阪支店に転勤していたので、僕とFの家族は3度も同じ社宅に住んだのだった。
このように僕の父とFの父が何度か同じ支店と本店に勤務することになったのは、2人共宮城県北の田舎町の出身で、父は東北大学法学部卒でFの父は明治大学法学部卒だったので、銀行の人事の人たちが2人をワンセットのように扱っていたという背景があったらしい。出身地が同じだとこういう扱いを受けることは、大手企業ではよくあるらしい。
2人の両親4人が宮城県出身なので、僕が中学1年の時に家族は仙台にマイホームを建てて仙台に永住することになり、Fの家族はその2年後に同じように仙台にマイホームを建てたので、2人の家族は同じように仙台で永住することになったのだった。それで僕とFの奇遇はさらに続き、うちは仙台市の南学区住みなので僕は南学区の仙台一高に進学して、Fの家族は北学区住みだったのでFは仙台二高に進学した。つまり、仙台市内のライバル校に進学したのだった。
ところが僕と幼馴染のFは好きな教科と趣味が違うので、あまり共通点がなくてだんだんと疎遠になっていった。同じ小学校に通っていた時もケンカすることがよくあった。
Fと僕は幼馴染だからすごく仲が良かったのだろうと、この記事を読んでる人は思うだろけど、はっきり言うと僕とFはあまり性格が合わなくて、同じ仙台市内のライバル進学校に進んだのに、2人が高校時代に一緒に遊んだことはあまりなかった。理由の一つは僕は軍事マニアで鉄道マニアの文系だったけど、彼は動物が大好きな理系であり、好きな学科も興味も一致しなかったことが挙げられる。だから、僕は特に現代史の勉強のために文学部に入学したが、彼は動物学を知るために農学部に入学した。でも、農学部に入ってからはバイオテクノロジーの研究をしていたらしい。
さらに、僕がFとあまり合わなかったのは、彼の性格が癖のあるものだったから。同じ西宮の小学校に通っていた時にクラスも一緒で、体育の授業の時に走り高跳びをしたことがあった。僕は運動音痴だから既に100センチが飛べなくてリタイヤしたが、Fは小6で既に身長が160ほどあって運動も得意だったので、120センチの高さに挑戦した。クラスの中でもこの高さに挑戦していたのは、5人くらいしかいなかった。
それで、体育の授業が終わったら普通ならそこで高跳びの授業は終わるけど、Fは「絶対に120を越えたいからもっと続けたい」と言って、クラスの生徒がみんな教室に帰っても挑戦を続けた。その日の最後の授業だったので、担任の中年女性の先生は「F君は続けたいならやってなさい。G君(僕のこと)は同じアパートに住んでるから、F君がケガをしないようにここで見ていなさい」と言ったので、Fの挑戦を僕はずっと見守ることになった。
ここからがFの性格の悪い所で、なんと午後5時になって「学校に残っているみんなは帰宅するように」という校内放送が始まっても、Fは「120を越えるまで続ける」と言って止めようとしなかったのだった。担任の先生がやって来て、「F君、まだやっているの?いい加減にして今日は諦めて帰りなさい!G君も困ってるでしょ」と言っても、挑戦を止めたくないと強情に言っていた。それでも流石に校門を閉めて先生たちの中には帰る人も出てきて、ようやくFはやめたのだった。
それでこういうことが1度だけではなくて、何度かあったのだった。だから僕はFのお母さんに、
「Tちゃん(僕のこと。小さい頃から家族ぐるみの付き合いだから、Fの母は僕に自分の息子みたいに接していた。うちの母も、Fには自分の子供みたいに接していた)いつもいつも本当にごめんね。M(Fの名前)がああいう強情な性格だから、Tちゃんにはいつも迷惑をかけてるね」
と何度も謝られたことがあった。
写真下は2人が通っていた小学校の近くにあった阪急西宮北口駅。僕とFが小学校6年生
だった頃は、まだ西北駅名物の神戸線と今津線の「ダイヤモンドクロス」があった。
2人とも高校は学区の関係で仙台市内の違う進学校に進んだが、Fは1年生の時から大学受験のことばかり話していた。だから、幼馴染だったけどFと遊んでも会話が面白くなかったので、あまり遊ばなかった。
2人が仙台市内のライバル進学校に入学した後に、Fが帰宅途中に僕の家に遊びに来たことがあった。それで、Fが話したことは仙台二高でどういう勉強をしているかということだった。僕は久しぶりに会ったので、他の何か楽しいことを話そうと言ったのだが、
「お前は大学受験のことは考えていないのか?俺は東京大学か東北大学に現役で入学することをマジで目指しているから、勉強のことしか考えてないぞ。せっかく進学校に入ったのに、お前のように遊ぶことを考えてると勉強についていけなくなるし、現役で合格できないぞ。もっと勉強のことを考えるべきだ」
とFは言って、僕の考えを弱気と思っていたようだった。しかし、高校1年の春から大学受験を早くも考えるのは、随分とハードな考えであり僕にはついていけないと思った。それから、僕は高校時代ではFと考えが合わないし、実際に会う気がなくなった。
その後、数年後に彼が東京大学農学部大学院に入ったことを聞いたら、
「やはり、Fのように子供の頃から何でもしつこく何度も挑戦をして究める性格でないと、東大では学べないんだろな。俺のような少し遊んでもいいじゃないかという考えでは、とても東大では学べないんだろう。しかし、何でそこまで必死に挑戦をする必要があるのか?もう少し人生を楽しもうとか思わないのか?東京大学で学ぶというのは俺には合わないな」
と僕は思った。恐らく、多くの人は同感だと思う。だから、僕は「東大王」というクイズ番組を見ても、
「Fのような奴がたくさんいるのが東大だから、なんか興味がない。東大生はこんなに凄いもの知りなんだということを見せて、視聴率を取ってるんだよな」
くらいにしか思わない。だいたい、それだけ知識がある人が東大にいて、なんで、それをもっとプラスに、或いは別の方向に使えないのかと疑問に思ったりする。
「第二次世界大戦に日本が負けた後の東京裁判で、有罪になった人たちの出身大学はほとんどが東京大学法学部でしょ?だから東大卒にロクな人はいなかった」
というのはよく左翼が言う意見ではあるが、まあ、事実といえば事実である。
Fとは幼馴染というだけでなくてオカルトレベルの奇妙な縁があり、小学校6年生の時に2回くじ引きでクラスの席を決めたら、2回とも隣になったことがあった。
Fとの奇遇な話に戻るが、彼とは同じクラスになっただけでなくて、小学校6年の時は席が隣という期間が合計すると6か月ほどもあった。確か2学期の時に席替えがあって何のトリックもインチキもなしに、担任の中年女性の先生が作った置いてある紙切れを取って席を決めた。そしたら俺とFは隣の席になった。
「同じアパートに住んでるだけでも嫌なのに、学校でも席が隣なんて気持ち悪い。先生、もう一度、くじ引きをできへんのですか?」
と先生に2人とも言ったけども、もちろん、もう一度くじ引きが出来るわけはなかった。
それで、3学期になった時にまた席替えがあった。もう一度、何のトリックもインチキもなしに、担任の先生が作った置いてある紙切れを取って席を決めた。そしたら、僕とFはまた席が隣になったのだった!
僕とFが東京の小学校でクラスが同じで、西宮でまたクラスが同じということはクラスメイトも知っていたので、みんなが、「エーーーーーッ!!なんで、2人はいつも一緒になるんや!?オカルト、ホラーみたいやな」と言ってみんながビックリしていた。担任の先生も、「G君とF君はまた席が隣なの?おかしいね、先生は何のトリックもしてへんよ。あんたらも何もインチキはしてへんでしょ?なんで、2回も席が隣になるのかしらね?それだけ仲がいいと、神様が特別扱いをするのかもしれんね」と言って、首を傾げていた。(笑)
僕の唯一の幼馴染だったFについて記事を書いたけど、僕にはFのような「勉強でも運動でも妥協しない」という生き方は無理。学生時代にすごく頑張ったのでFは大手物産会社に入れたけど、50歳近くになって彼は本当に幸せなのか?
僕と唯一の幼馴染のFとの子供の頃からの腐れ縁を書いてみたけど、どういう感想を持ったでしょうか?僕がこの日記で強調したいのは、やはり、Fのように何事も完ぺきに極めるような性格でないと、東京大学、東京大学大学院という所では学べないということです。だから、僕のような中途半端な性格で生き方の人では無理です。でも、Fのように高校に入った時から既に3年後の大学受験の準備を考えてないといけないので、別にうらやましいとは思いません。よく言われるのは、「東大出身の人と話をしてもつまらない。勉強と仕事関係の話しかしないから」ということです。東大卒の人が全員Fのような性格とは思いませんが、東大卒の人たちは人生に対する考え方が、禁欲的すぎるとも思われているようです。