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僕は南米のボリビアに3か月間行ったことがある

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父が仙台に本社がある建設会社に勤務していた時に、その会社は南米のボリビアで土木建設と農園経営の仕事をしていた。それで、「一般会話程度のスペイン語がしゃべれるようになったら」という条件で、ボリビアの農園に行かせてもらった。

 

 

今日は僕が1993年9月から11月まで、南アメリカのボリビアに行った時のことについてブログ記事に書きます。実はいうと僕が20代半ばだったその頃は、スペイン語が日常会話くらいはしゃべれたのです。今はかなり忘れましたが。それで、父が大手銀行を辞めた後に勤務していた仙台に本社がある建設会社が、ボリビアで土木建築の仕事をしていて、さらにボリビア第2の都市のサンタクルスで農園経営もしていました。そこで父と会社の重役さんに頼んで、「スペイン語がある程度しゃべれるようになったら、ボリビアに行かせてもらう」という条件で、ボリビアに行くことができたのです。

 

 

1993年9月当時、僕の父が勤務していた建設会社は、サンタ・クルスというボリビア第2の街の郊外に農園を所有していた。それで、上に書いたようにスペイン語が一般会話くらいはしゃべれるようになったので、農園に行かせてもらった。サンタクルスの郊外には建設会社の事務所があり、街から200キロほど離れた所に農園があり、事務所と農園をジープで週に1,2回往復する日々が続いた。なぜ往復していたのかというと、農園での生活物資が1週間ほどでなくなるので、週に1度は街まで買出しに行く必要があったのだ。上の写真はサンタクルスの農園にいた当時の僕と、現地採用のボリビア人Vと、事務所の世話をしていたボリビア人Lの息子。父のLは他の写真に写ってるので、この写真には写ってない。

 

農園はサンタクルス市から200キロほど離れた草原にあり、隣の農園は20キロも離れているという僻地だった。アルゼンチン北部からボリビア東部に広がるパンパという大草原にあり、見渡す限り山がない真っ平な土地だった。

 


農園はパンパ(アルゼンチンからボリビア、パラグアイに広がる大草原。「母を訪ねて三千里」というアニメを見たことのある人なら知っているだろう)の真ん中に位置していて、隣の農園まで片道20キロという、日本では想像も着かないような環境だった。東京で例えるなら、東京駅にウチの会社の農園があるなら、隣の農園は品川駅の辺りにあるということになるだろう。そして、その間は草原と森しかないのだった。

そのような、農園とサンタ・クルス郊外の事務所を往復していた時には、必ず、誰かと一緒だった。農園にはジープが2台しかなかったので、ジープを一人で運転して乗るということはムダ使いということになる。それに、ボリビアの道路は極めて状態が悪いので、初めて来た日本人がすぐに運転できるハズはなかったので、必ずボリビア人の運転手が運転していた。その運転手が写真に写っているVである。

 

 

農夫の母親が、「私の子供には大学に行って経済学、法学などは学んでほしくない。農園で家族みんなで農作業をして、キリスト様に感謝の祈りを捧げるだけでとても幸せだ」と言っていた。

 



ある日、農園で勤務する農夫と農夫の家族数人、運転手兼会計士のV、僕などの数人で農園に向かって移動していた。途中で休憩していた時に、ある農夫の母親が、

「私はね、自分の子供たちには、絶対に大学なんかには行って貰いたくないんです」

と言った。

「えっ、どうして大学に行ってはダメなんですか?」

と聞くと、母親から次のような答えが返ってきた。

「大学に行くと、政治学、経済学とか悪知恵ばかり教えるでしょ。私の子供には、そんなものは必要ないんです。高校までなら、イエス様の教えとか、ありがたいことを教えてくれるけど、大学では悪知恵を教えるから、そんなものは私の家族には必要ないんです。あなた方、日本人が作ってくれた農園で、家族みんなで明るく楽しく農園を耕して、イエス様に祈りを捧げて、私の人生はそれでもう充分なんです。サンタ・クルスにも、ボリビアの至る所にも住む家がないような貧しい人がいるというのに、私は素晴らしい家族、友達、仲間に恵まれて、毎日、楽しく生活が出来ています。こんなに幸せで他の人に申し訳ないぐらいです。私は世界で一番幸せな人間です」

「でも、僕は日本から飛行機に何十時間も乗ってここに来ました。海外で生活してみたいと思って。多くの日本人は仕事の休みを取ると、海外旅行に行ったりしますよ。そして、パリ、ニューヨークなどでブランド品を買ってたりしてます。お金を貯めて高級な車を買ったりもしてます。あなたは、海外旅行、ブランド品、車などには興味はないのですか?」

と僕が日本人らしいことを言うと、母親は優しい微笑を浮かべてこう言った。

「そういうものは、私の生活には全く必要ないです。別に海外旅行、ブランド品、車なんかなくても、家族で楽しく生活しているだけで満足です。世の中には、住む家が無い人、親がいない子供などがたくさんいるんですから。家族みんなで農園で生活しているだけで、充分に幸せです」

この農夫の母親の話を聞いた時は、僕は本当に驚いたのだった。今の日本人でこんな発想をする人はあまりいないだろう。まず、大都市圏ではほとんどいないだろう。田舎のどこかの村に行けば、毎日、地元の小さなお寺に行ってお釈迦様に祈りを捧げて、こういうことを言う年輩の人がいるかもしれない。

 

写真下は人口100万人ほどのサンタクルス市と、会社が保有する農園の間にあった鉄橋兼道路橋。リオグランデ川という日本の利根川よりも川幅が広い大河に橋が1本しかかかってないので、鉄道が行った後に車が通ることができる。車も橋の上は一方通行なので、20台ほど車を右岸から通すと、次は20台左岸から通すという交通整理を警察がしている。やはり、貧乏な国なので鉄道橋、2車線の車道橋を架けることができないのである。それで写真では鉄道が行った後に、10台ほどの車が通行の許可を待っている。前のジープの荷台には若い女性(セニョリータ)たちを始めとして、数人の人たちが乗っている。上にも書いたようにジープとトラックは貴重品なので、荷台に人を乗せるのが常識だった。

 

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日本の家に帰って僕の両親に農夫の母親が言っていた話をすると、両親ともに学歴重視の考えだったけど、「確かにその農夫の言うとおりだ。家族で楽しく幸せに生きることが一番大事だ」と2人とも笑って言った。



実は言うと、僕の家族もけっこう教育熱心だった。父が名門国立大学から大手銀行に入って、経済的に恵まれていたので、やはり、子供にも同じようになって欲しいという思いがあったのだろう。さらに、母も学費がなかったので大学には行っていないが、進学校出身だった。

でも、ボリビアから帰ってきてこの話を両親にすると、長年大手銀行に勤務していて学歴重視の父すら頭をかきながら苦笑いして、

「まあ、確かにそうだな。その農夫の母親の言うとおりだな。家族みんなが仲良く楽しく暮らすのが一番だな。家族みんなで楽しく農園で働いているなんて、本当に世界で一番幸せかもな。日本人は、高度経済成長と共にそういう大事なことを忘れてしまったな。お父さんが子供だった頃は、みんな仲良く楽しく生活していたよ。今の若い日本人は本当に可哀相だと思うよ。バカの一つ覚えのように親たちは子供に、

『有名大学、有名企業に入れ!』

としか言わないしな。子供たちは学校が終わっても、塾とか予備校に行かないといけないからな。お前は、そういう話を聞けただけでも、ボリビアに行った価値はあったのさ」

と言った。

実は言うと、父は宮城県の県北の農家に戦前に生まれていて、高校も進学校出身ではなかった。だから、少年時代は、家族みんなで力を合わせて農業をして生活していて、最近20年位の日本の悪い特徴である、“家族崩壊”などとはほど遠い生活をしていた。古き良き日本の農村というのを、よく知っていたのだった。そういう背景があったから、ボリビア人の母親が言ったことがよくわかったのかもしれない。

 

もちろん、苦学して有名大学を出て金持ちになりたいという人も多いだろうけど、その一方で家族、愛情、友情などを見失うのはおかしい。



もちろん、苦学して大学で経済、政治などを勉強して卒業して、就職できた日本人、これから、社会で大成功して、大きな事業、夢を実現させて、色んな贅沢な生活をしたい若い日本人はたくさんいると思うので、ボリビア人の価値観に共感できない人もいるだろう。

もちろん、大きな仕事をしたい、贅沢をしたいと思うことは悪いことではない。資本主義国なのだから、国の産業、経済を発展させるために重要なことだ。でも、今の日本人に最も欠けていることを、いわゆる発展途上国であるボリビア人は知っていると、僕は1993年に秋にボリビアに行った時に気が付いた。ただし、日本では秋だけど南半球のボリビアでは春だったけど。