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亡くなった父は超エリートサラリーマンだった

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僕の父は1999年12月29日に胃癌で亡くなったので、他の人には「ハルマゲドン」は起こらなかったが、僕の家族には「ハルマゲドン」は起こった。

 

 

今日、12月29日は父が61歳で胃癌で亡くなった命日なので、亡くなった父に関するブログ記事を書こうと思います。写真上は父が勤務していた農林中央金庫の本店が入っている丸の内にある第一生命ビル。

 

父が亡くなったのは1999年(平成11年)12月29日だが、この日付を見ると何か思い当たる人がいると思う。「ノストラダムスの予言」で世界滅亡のハルマゲドンが予告されていたのが1999年末だから、他の家族にはハルマゲドンは来なくても、少なくとも僕の家族にとってはハルマゲドンはあったのである。でも、既に僕は31歳で仕事をしていて、兄も32歳で仕事をしていて、妹も28歳で看護師の仕事をしていたから、少なくとも最悪のハルマゲドンではなかった。しかし、父は2001年9月に生まれた初孫(妹の娘だから僕にとっては姪)には会うことができなかった。それは、とても残念なことではあったが、でも、父は昭和13年生まれで昔気質の親父だったから、特に妹が男と付き合っているということを聞くと、「どういう男なのか、詳しく襲えなさい」と言って交際に干渉するタイプだったから、妹がなかなか結婚前提で男と付き合う気になれなかったのは仕方がなかっただろう。今でも娘の交際に干渉する親はいるが、あまりいいことだとは思わない。

 

 

さらに、父が亡くなった日付は12月29日で葬儀があったのは12月31日だったから、仕事をしている世間の人たちにとっては葬儀に参加しやすい日付だが、家族にとっては最悪の日付だった。12月29日というのは1年の「仕事納め」の日だから、年内の仕事を終わらせた人たちにとっては、その後の葬式とお通夜に参加しやすい日付である。一方で家族にとっては、年末年始の行事は全部が父の葬式とお通夜になってしまうので、最悪のスケジュールになった。驚いたのは父が亡くなったのは午後3時頃だが、その3時間ほど後には既に東京に住む父の兄妹がうちに到着し始めたことである。まあ、今は東北新幹線があるから、3時間もあれば東京から仙台まで移動できたのだろう。

 

 

僕が驚いたのは父は大手銀行勤務で昭和時代の典型的な「会社人間」だったが、亡くなる日付まで仕事の邪魔にならないように仕事納めの後に亡くなったことで、「超エリートサラリーマン」の本領発揮だと思った。

 

 

それにしても、僕が本当に驚いたのは父の最期までの「会社人間」ぶりである。絶対に仕事中心の「会社人間」だった父としては胃がんと闘病をしている時でも、「12月末に亡くなってしまうと年末の決算期の仕事をしている人たちに迷惑をかけるから、絶対に仕事が忙しくなくなる新年まで生き延びよう」という強い意志があったのだろう。それが、12月29日の仕事納めの日になったら、恐らく、気が緩んでしまって亡くなったのだと思う。しかし、年末に亡くなるというのはその後に葬式とお通夜をしないといけないので、家族にとっては本当に最悪の日程となった。「亡くなる時まで家族よりも仕事の方が重要なのか。本当の超エリートサラリーマンだな」と僕は思ったのだった。そして、らに、「どうせならあともうちょっと生きて、新年の1月10日くらいに亡くなってくれたら、その後の葬式とお通夜も家族にとってもやりやすかった」とも思った。

 

父には子供の頃に日本軍の戦艦「大和」、戦闘機「ゼロ戦」の模型、ドイツ軍のティガー戦車の模型などを買ってもらって、父の紹介で僕は軍事マニアになった。父はハリウッド戦争映画を見ていても、「日本軍ドイツ軍もよく戦ったのだが、残念ながら外交の失敗で圧倒的な物量を持つ連合軍には勝てなかった」と言っていて、日本軍ドイツ軍=悪役という見方はしてなかった。まあ、こういう見方は戦前生まれの日本人なら当たり前のことだろう。自分たちの先祖が戦争を生き延びたから今の自分たちがいるのに、「先祖は戦争犯罪人で悪役」というふうに教えるのは間違っている。

 

 

父に不満があるとすれば、銀行員で転勤族だったので仕方がなかったかもしれないが、「休日も学校の先生と近所の人と付き合うのは面倒だ」と言って、子供の教育にはほとんど関わらなかったこと。でも、それは間違いだったと父はのちに認めている。

 

 

しかし、父に不満があるとすれば、学校の父兄参観、運動会、先生の家庭訪問などの子供の教育にはあまり関わりたくなかったことだ。父は僕が小学校3年生の時には既に農林中央金庫という政府系銀行の営業課長だったので、「北は青森から南は鹿児島まで営業課長として出張があって、月曜から土曜まで仕事をしてるのに、休日も学校の先生と近所の人と付き合うのは面倒だ」と言って、子供の教育にはあまり関わらなかった。でも、父のような転勤族の場合は転勤先の見知らぬ街での仕事だけでも大変なのに、転勤先で学校の先生と近所の人と付き合うのは、確かに面倒だったのだろう。しかし、父は仙台にマイホームを建てて定住するようになってから、「子供たちの教育をお母さんだけに任せて、お父さんがあまり関わらなかったのは間違いだった」と言っていて、それは自分の失敗だったと認めている。

 

 

今日は父の命日だから、色々と亡くなった父に関することを書いてみましたが、やはり、12月29日という「仕事納め」の後に亡くなったというのが、人生の最期まで「会社人間」「超エリートサラリーマン」の本領発揮だったと思います。でも、その転勤族だった銀行員の父のお陰で家族は経済的には何の不安もなかったけど、精神的にはかなりかき回されたという思いがします。長所もあったし短所もあったということですね。