Deutschland-Lab

Deutschland-Lab

歴史や文化、スポーツなどドイツに関する情報まとめサイト

広島に住んでいた時の原爆の話

 

 

 

 

今はウクライナ戦争で暗いニュースが多いですが、最も危険なのはロシアのプーチン大統領が「ウクライナがいつまでも抵抗をするのなら、戦術核兵器を使う用意がある」などと言ってることです。戦術核兵器は破壊力は小さいと言っても、人類が初めて使用した広島型原爆ほどの破壊力はあると思えるので、プーチン核兵器を使用すればとんでもない事態となると思います。

 

 

僕は軍事マニアなので第三次世界大戦のウォーゲームをしたことがあるが、広島に住んだことがあるので核兵器で攻撃しあうシナリオだけはする気がしなかった。

 

 

 

僕は軍事マニアなので戦争のシュミレーションを学生時代によくプレイしたことがあり、その中には東西冷戦時代のアメリカを中心とする軍対ソ連を中心とするワルシャワ条約軍がヨーロッパで戦うというゲームもあった。そのゲームは両軍の戦争で被害が増えると最後にはソ連側が追い詰められて、追い詰められたソ連側は核ミサイルを飛ばして逆転を狙うというシナリオになっていた。しかし、小学生時代に広島に住んだことのある僕は核戦争シナリオだけはプレイする気にはなれなかった。一緒にプレイをしていた友達も、「核戦争シナリオになると、どちらも通常兵器を使用する作戦も何も必要なくなるからゲームとして成立しなくなるな」と言って、当然ながら嫌っていた。

 

 

小学校3年生の時に銀行員だった父の転勤で東京から広島に引っ越した。広島に住んですぐに原爆資料館に行ったが、あまりにも展示物が残酷だったので家に帰っても家族はパニック状態だった。その様子を見て父は怖くなって、原爆資料館には一度も行かなかった。

 

 

そこで、今日は広島に住んだ時の思い出について書こうと思う。小学校3年の6月から2年半ほど広島に住んだ。過去のブログ記事にも書いたが両親ともに仙台の人間なのだが、父が大手銀行勤務の転勤族だったから子供の頃は全国各地に住んだ。それで、広島に引っ越した時にまずやはり家族で原爆資料館を見に行ったけど、小学3年生にとってはあまりにもショッキングな展示内容だった。家に帰って夜に寝ようとしても怖くて眠れなかった。小学校1年の妹は「怖い怖い!」と叫んで泣いていた。父は一緒に行かなかったのだが、父は原爆資料館の近くにあった銀行の広島支店に勤務していたけど、家族がパニックになったのを見て怖くなって原爆資料館には一度も行かなかった。

 

 

広島の小学校の担任の先生は原爆が落ちた後に多くの死体の処理をしていて、その時の様子をたまに授業中に話すことがあった。とても奇妙なことに、先生は笑いながら話をしていて生徒の中にも笑いながら聞いてる人がいた。

 

 

広島の小学校の担任の先生は既に50歳くらいのおじさんだったので、原爆が落ちた時には中学生で死体で埋まった広島の通りで死体の処理をしたと言っていた。その頃はまだ戦後三十数年くらいだったから小学生でも原爆に興味がある子供が多くて、授業時間が残ると生徒たちは先生に「ピカ(原爆のこと)が落ちた時の話をしてくれ」と頼んで、先生はピカが落ちた時がどうだったかという話を始めた。それが、東京から広島に引っ越した僕には全くわからなかったが、先生は笑いながらピカが落ちた時の話をして生徒たちも笑いながら聞いていた。生徒の中には、「原爆資料館に行ってもっとよく調べてみよう」と言っていた人もいた。転勤族の子供で東京から引っ越してきた僕には、よくわからないメンタルだった。

 

 

当時はまだ戦後30年ほどだったので、原爆を生き残った人たちが広島で働き盛りの世代だった。だから、「あなたはピカ(原爆のこと)が落ちた時はどう生き残りましたか?」という会話は、広島では日常の普通の会話だった。

 

 

当時の広島は原爆を体験した人たちがまだ働き盛りの世代だったから日常会話でよく原爆の話をしていて、「あなたはピカが落ちた時はどうやって助かったんですか?」という話をしていた。当時の広島は1年に数回しか原爆に触れない日本の他の都市とは、明らかに違っていたという記憶がある。だから、両親ともに東北の宮城県の出身で原爆とは関係ない人生を歩んできた両親は、「うちは原爆とは関係ないから、広島の学校のPTAの集まりに行っても、原爆の話にはついていけない」と言って、苦笑いをしていた。僕も「G(僕のこと)の両親は原爆が落ちた時はどこにおったんじゃ?」と同級生から質問されても、「わしは両親が東北の宮城県育ちで、お父さんが銀行員で転勤族じゃけん、原爆とは関係ないんじゃ」と答えていた。だから、家族全員が原爆の話にはついていけなかった。(苦笑)

 

 

それで、広島の小学校では原爆投下後の地獄の広島の様子を先生が笑いを交えて話をするということを書きましたが、もちろん、原爆で亡くなった方々を冒涜するつもりはありません。僕自身も広島の小学校のクラスで先生と生徒が笑いながら原爆が落ちた時の様子を話しているのを見て、「なんでそんな悲惨な時の話をしているのに冗談を交えたり、笑ったりできるのだろうか?」と、とても不思議に思ったのですから。