Deutschland-Lab

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関ケ原古戦場を訪れた

 

 

 

 

2011年9月に関ヶ原古戦場に行った。ここに行った理由は大学教授をしているドイツ人の友達が関ヶ原に行きたいのだが研究が忙しくて時間がないので、僕が代わりに行って写真を撮ってきたのだった。

 

 

今日は2011年9月中旬に岐阜県にある関ケ原に行って、関ケ原合戦場を見た時のことについてブログに書こうと思います。

 

関ケ原に行ったのは理由があり、僕のドイツ人の友達はアメリカのテキサス州にある大学で理学部大学教授をしているけど、彼が関ケ原を一度見てみたいと言っていたから。彼は関ケ原豊臣秀吉徳川家康が直接に決戦をしたわけではないが、この戦(いくさ)が戦国時代で最大の戦であり、この戦の後に徳川家康が天下を取るのが決まり、事実上は負けた豊臣家は没落することが決まったことを知っていた。そこで、夏の間は東北大学理学部で研究活動をしている彼は忙しいので、代わりに僕が関ケ原に行って写真を撮影して紹介することにしたのだった。僕が関ケ原に行ったのは2011年で、ハイヤーに乗って関ケ原を回ったが、数年後にドイツ人友達は関ケ原を1日中歩き回って見物したと言っていた。

 

写真上は関ケ原古戦場の中央部にある資料館。関ケ原合戦の多くの資料が展示されていた。

 

 

関ヶ原駅ハイヤーを手配して運転手さんが一番初めに連れていってくれたのが、徳川家康が最初に陣を敷いた桃配(ももくばり)山だった。しかし、合戦が進むにつれて家康はどんどんと陣を前に動かした。

 

この写真は関ケ原古戦場の桃配山(ももくばりやま)にある徳川家康の初めの陣所の後で、僕が乗ったハイヤーの運転手はまずJR関ケ原駅から比較的に近いここに連れて行ってくれた。1600年9月15日早朝に合戦が始まった時は、家康はここに陣を敷いて約3万の徳川軍を率いた。しかし、その後、午前中は石田三成の率いる西軍の方が優勢であり、なかなか石田三成の陣が崩れないこと、中立を約束していた背後の南宮山に陣取る16000の兵力の毛利勢が不気味に思えたこと、裏切りを約束していた15000の兵力の小早川秀秋がなかなか動かないことにいら立って、段々と陣地を前に移していった。

 

ウイキペディアの関ケ原合戦の説明はこちら。

 

ja.wikipedia.org

 

西軍の大将だった石田三成が陣を敷いた笹尾山にも行った。西軍の総大将だった毛利輝元大坂城から出陣しなかったので、三成が西軍を率いることになった。しかしながら三成は家康に比べてカリスマ、人望がなくて、関ヶ原合戦では小早川の裏切り、毛利の中立などがあった。

 

 

 

上の2枚の写真は西軍を率いた石田三成の陣跡から関ケ原古戦場を見下ろした風景。西軍の総大将は実際は毛利輝元だったが、大坂城にいる豊臣秀頼を護衛するとか何とか言い訳を言って、結局、大坂城から出陣しなかった。事実は毛利家はこの合戦にば関わりたくなかったので、南宮山にいた毛利秀元大坂城にいた毛利輝元徳川家康の調略によって中立の立場を決めていたようである。だから、実際には西軍を率いて軍勢を動かしたのは石田三成になった。そのため、徳川家康に比べるとあまり人望のなかった石田三成はかなりの苦戦を強いられることとなった。だが、三成は家康の率いる東軍よりも自分の率いる西軍の方が軍勢の数が多かったので、関ヶ原合戦の前には「この合戦には絶対に勝てる」と信じていたらしい。

 

今のように関ケ原では石田三成が負けて、三成は合戦後に京都の六条河原で斬首されたという歴史の事実を知っていると、ここから三成は勝てると思って合戦の指揮を執っていた三成が何か哀れに思える。だから、僕は小学校1年の時に「マンガ日本の歴史」を読んで関ケ原合戦を知った時は、勝った家康よりも負けた三成の方に同情したのだった。