- 関ヶ原の合戦は東軍の福島正則と西軍の宇喜多秀家の戦いから始まった。戦いの始まりを知った東軍の黒田長政は烽火(のろし)を上げて、東軍全軍に総攻撃をかけるように合図を送った。
- 徳川家康が率いる東軍はほぼ全軍が戦っていたが、石田三成の率いる西軍は半分以下しか戦ってなかった。三成は松尾山に陣取る小早川秀秋に烽火を上げて攻撃するように催促をしたが、秀秋は東軍に寝返る約束を家康としており、家康の催促を受けて秀秋は寝返った。
- 小早川秀秋が寝返ったことで東軍が優勢になり、西軍は総崩れになって敗北した。合戦の後に徳川家康は西軍武将の首実検を行ったが、石田三成、小西行長、宇喜多秀家は逃亡して大谷吉継の首は家臣しか知らない場所に埋められたので、主要な武将の首は届けられなかった。
- 徳川家康は合戦後に両軍の戦死者を弔うために首塚と慰霊碑を建てた。家康は戦死した両軍の武士への気配りも見せており、こういう人柄だから最後に天下が取れたのだろう。
関ヶ原の合戦は東軍の福島正則と西軍の宇喜多秀家の戦いから始まった。戦いの始まりを知った東軍の黒田長政は烽火(のろし)を上げて、東軍全軍に総攻撃をかけるように合図を送った。
今日(9月9日)の早朝にイギリスのエリザベス女王が崩御されたというビッグニュースがありましたが、それについてはまた後日にブログに書くことにして、今日もまた関ヶ原古戦場を訪れた時のことについてブログに書こうと思います。関ヶ原に行った理由は前にも書きましたが、アメリカの大学の教授をしていて夏の間だけ東北大学理学部で研究活動をしているドイツ人友達が、「戦国時代最大の合戦のあった関ケ原に行きたい」と言っていたけど、彼は忙しくてなかなか行けないので僕が代わりに行って写真をたくさん撮ったりしたのです。数年後に彼は関ヶ原を訪れて1日中歩き回ってよく調べたと言ってました。
上の写真は関ヶ原合戦図屏風の一部で、東軍の福島正則と西軍の宇喜多秀家が戦っている様子が描かれている。最初に関ヶ原で合戦を始めた一番槍は徳川家康の孫の松平忠吉だったが、これは抜け駆けの一番槍であり、本格的に合戦を始めたのは福島正則と宇喜多秀家だった。
東軍の黒田長政が陣を敷いていた岡山の写真。福島勢と宇喜多勢が戦い始めたのを見た長政はここで烽火(のろし)を上げて、東軍全軍に一斉に前に出て攻撃を仕掛けるよううに合図を送った。長政の軍は細川忠興の軍と共に、前面に陣を敷く西軍大将の石田三成本陣に攻撃をかけた。しかし、三成側は数日前から関ヶ原で決戦になると予想していて木を組んだ柵、大砲などを用意していたので、なかなか三成本陣は落ちなかった。
徳川家康が率いる東軍はほぼ全軍が戦っていたが、石田三成の率いる西軍は半分以下しか戦ってなかった。三成は松尾山に陣取る小早川秀秋に烽火を上げて攻撃するように催促をしたが、秀秋は東軍に寝返る約束を家康としており、家康の催促を受けて秀秋は寝返った。
この写真は、石田三成本陣跡から西軍から東軍に寝返った小早川秀秋が陣取る松尾山を見たもの。三成は自分の率いる西軍が鶴翼の陣を敷いたのに対して、徳川家康の率いる東軍がそれに包囲されるように魚鱗の陣を敷いたのを見て「勝ちは確実だ」と確信したという。明治時代に日本陸軍の教官として来日したドイツ帝国陸軍のメッケル少佐も、関ヶ原の東軍と西軍の布陣を見て「西軍が勝ったに決まってる」と言った。
しかし、石田三成が小早川秀秋に攻撃をかけるように烽火を上げても秀秋は動かず、使者を送って秀秋に攻撃を催促してもあれこれと言い訳をして動かなかった。実は秀秋は家康から書状をもらって西軍から東軍に寝返る約束をしており、午後になって家康から裏切りの催促を受けると東軍側について西軍の大谷吉継の軍勢を攻めたのだった。三成はこの陣地から秀秋の裏切りをどのような気持ちで見ていたのだろうか?すごく悔しかったに違いない。
小早川秀秋が寝返ったことで東軍が優勢になり、西軍は総崩れになって敗北した。合戦の後に徳川家康は西軍武将の首実検を行ったが、石田三成、小西行長、宇喜多秀家は逃亡して大谷吉継の首は家臣しか知らない場所に埋められたので、主要な武将の首は届けられなかった。
これは合戦が終わって徳川家康の東軍が勝った後に、西軍武将の首実検を行った場所の写真。しかし、西軍の大将である石田三成は逃亡して、軍勢を率いていた小西行長、宇喜多秀家も逃亡したので、有名な武将の首は届けられなかった。唯一、自害をした大谷吉継も家臣が絶対に見つからない場所に埋めてしまったので東軍の手には渡らなかった。戦国時代はこの敵武将の首実検によって合戦後の褒美が決まったというのだから恐ろしい話ではあるが、敵武将の首を見せないと本当にその武将を討ち取ったという証拠にはならないから仕方がないことではある。
徳川家康は合戦後に両軍の戦死者を弔うために首塚と慰霊碑を建てた。家康は戦死した両軍の武士への気配りも見せており、こういう人柄だから最後に天下が取れたのだろう。
これは、合戦後に関ヶ原の合戦で亡くなった東西両軍の戦死者を弔うために建てられた首塚の写真である。関ヶ原の戦いには少なく見積もっても両軍で約15万の兵力が参加しており、両軍の戦死者の数は少なくとも1万人ほどだった。また、首塚の近くには供養塔も建てられている。確かに戦国時代の合戦は残酷ではあるが、関ヶ原合戦後の家康のように戦後に供養塔を建てる武将は立派であり、天下を取れたのもこういう戦死した者への心遣いがあったからである。しかし、合戦で戦死した武士はこのように丁重に葬られたが、合戦後に百姓などによる落ち武者狩りで亡くなった武士は悲惨だったという。