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上杉謙信武田信玄の大失敗

上杉家廟所 - Wikipedia

 

山形県米沢市にある上杉謙信以後の上杉家廟所

 

 

 

12月25日はクリスマスだったけど、山形県米沢市にある上杉家の廟所に行ってきた。そして、上杉謙信、景勝、鷹山のお墓を見てきた。

 

 

12月25日のクリスマスの日に、僕は雪の降る中を僕の住んでる仙台から仙山線に乗って山形へと行って、そこから山形新幹線で米沢へと行った。米沢に来た目的は雪の中を走る山形新幹線を撮影することが目的ではあったが、「せっかく米沢に来たのだから、上杉家廟所でも見よう」と思って、タクシーに乗って上杉謙信以後の上杉家当主のお墓が並んでいる廟所に行った。

 

この日はけっこう強く雪が降っていたので、タクシーの運転手に廟所の入り口で待っていてもらって帰りも同じタクシーで帰った。だからタクシー料金はけっこう取られた。それで廟所では上杉謙信、次代の景勝、江戸時代に上杉家の石高が減らされた時に倹約政治を行って上杉家を幕末まで生き残らせた土台を作った上杉鷹山のお墓を動画に収めた。

 

 

上杉謙信武田信玄はとても人気のある戦国武将だが、彼ら戦国大名家督相続で大失敗をしている。謙信は後継者を指名しなかったのでお家騒動が起こり、信玄は妾の子である四男に家督を継がせたので武田家滅亡の原因となってしまった。

 

 

上杉謙信武田信玄などは戦国時代の武将としてとても人気があるが、特にこの2人については名君とは言えない大失敗がある。それは跡取りを明確に指名しなかったことである。武田信玄は攻め滅ぼした諏訪家の姫であった湖衣姫を溺愛して、本妻である三条夫人よりも妾である湖衣姫と一緒にいることが多くなったので、これがお家騒動を起こす原因となった。三条夫人との間に生まれた長男の義信は母よりも妾を溺愛する父の信玄に激怒して謀反を起こして、自害に追い込まれている。

 

家督を継がそうと思っていた長男が死んでしまったので、結局、諏訪家の血筋を引く四男の勝頼が武田家の次の御屋形様となった。しかし、この無理な相続が信玄が亡くなってから2年後には武田家臣団の団結を壊して亀裂を生じさせて、長篠の戦いで多くの武田家系の家臣が討ち死にして、その後の1582年には武田家が滅亡する原因となった。この無理な家督相続で武田家が滅ぶ原因を作ったことは、武田信玄の業績の大きなマイナスとなる。

 

 

上杉謙信の場合は武田信玄よりももっと自分が死んだ後の上杉家の家督相続のことはひどくて、そもそも妻を娶っていなかったので実子がいなかったから、初めは親戚の上杉景勝家督を譲ることと決めていたが、長年争っていた北条氏康と和睦した時に北条氏康の息子、上杉景虎を養子として迎えたので、謙信が突然に49歳で亡くなった後に景勝と景虎が「御館の乱」という家督争いの合戦を行って、それに勝った景勝が上杉家の次のお屋形様となった。しかし、すでに上杉謙信は49歳だったのに家督を誰に譲るかを明言してなかったのは、これもやはり上杉謙信の偉大な業績の中でマイナスとなってしまう。結局、「御館の乱」によって上杉家はかなり弱体化してしまい、織田信長の後継者の豊臣秀吉と合戦をする力も失くしてしまった。

 

 

これは今の日本の父親たちにも通じるものがあり、父がせっかく立派な業績を残しても日本の父は子育てが下手なので息子の代で父の業績を台無しにすることがよくある。その点、来年の大河ドラマの主人公になる徳川家康は強力な徳川幕府を作って、260年間も徳川幕府が続く礎を作った。

 

 

これは、今の日本の父親たちにも通じるものがあり、自分のキャリアは堅実に積み上げるのだが、息子にそれを上手く継がせることができない。日本のエリートは戦国時代の昔から自分のキャリアを大成功させることにしか興味がなくて、子供の教育は下手なので自分が死んだらせっかく積み上げたキャリアを、息子の代で台無しにしてしまうことが多い。戦国時代の末期に出てきて徳川幕府を開いて、それを200年以上維持することに成功をした徳川家康は、家康以前の偉大な戦国大名たちが家督相続の時点で失敗していたことをよく見ていたからこそ、2代目秀忠に早めに家督を譲って自分は秀忠の後継人のような立場で徳川幕府体制を固めた。来年の大河ドラマは「どうする家康」だが、家康がいかに徳川幕府幕藩体制を固めたかということから学ぶことは多い。