ドイツのウルム市郊外にあるロンメル元帥のお墓の前で、とても優しいドイツ人老夫婦に出会った。
僕が1997年9月にドイツ、ウルム市郊外のヘルリンゲンという町にある、ロンメル元帥のお墓を訪ねた時のことだった。ロンメル元帥のお墓の前のベンチに座っていると、ドイツ人の老夫婦がやって来た。おばあさんは白人だったが、おじいさんはアジア人の顔をしていた。老夫婦は僕がロンメル元帥の墓前に供えた小さなワインを見ていたので、僕が下手なドイツ語で、
[Das ist mein, mein.....]
(それは、僕の、僕の・・・)
と言うと、おばあさんが、
「あなた、英語はしゃべれないのかしら?」
と英語で質問してきたので、
「ええ、英語はしゃべれます」
と僕は答えて、会話が始まった。
老夫婦と話し始めると、おばあさんはドイツ生まれのドイツ人だが、おじいさんは、かつてはハワイ生まれの日系アメリカ人だったことがわかった。おばあさんは、
「彼は昔は英語もしゃべれたのだけど、今は英語は忘れてしまって、ドイツ語しかしゃべれないんです」
と説明した。僕が思うに恐らく旦那さんは、日系アメリカ人で組織されたアメリカ軍の第442連隊戦闘団の一員だったのだと思う。この部隊はヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦い、戦後、ヨーロッパに駐留していたというから。恐らくそれで老夫婦は出会ったのだと思う。
「私たちはもう75歳で十分に生きたから、あとはキリスト様に召されるのを待っているのです」とおばあさんは微笑んで言った。
「私はまだ女学生だった頃にロンメル元帥に手紙を書いて、それで、元帥のサインと写真をもらったことがあるんですよ。元帥は本当に立派な方で、息子さんも長年シュツットガルト市長を務めていて、2人ともドイツ人からすごく尊敬されているんですよ」
と言って、おばあさんは僕に説明してくれた。このおばあさんは、恐らく、BDM[Bund Deutscher Maedel](ドイツ少女連盟)にいたのだと思う。ドイツ少女連盟とはヒトラーユーゲントの少女向け組織であり、ナチスドイツ時代は強制ではないが「全ての少女は所属するべき」と言われていた。
おばあさんは、さらに、自分の人生を振り返って、
「私は本当に素晴らしい人生を送ったんですよ。いい家族と友達に囲まれてね。本当にいい人生だったんです。
と言った。僕はおばあさんが、自分の人生を全てを過去形で話すのを不思議に思い、
「どうして、あなたは自分の人生について全てを過去形で言うんですか?まるでもう死んでしまったみたいに。まだ生きているのにおかしいじゃないですか?」
と質問するとおばあさんは、
「私と夫はもう75才だからいつ死んでもいいと思っているんです。私たちに残された最後の大仕事というのは他人に迷惑かけないように、周りの人に感謝しながら亡くなることです。私は子育ても終わって、孫の成長まで見ることが出来たから、この世に思い残すことは何もないんです。あとは、夫と共にキリスト様の下に静かに召されるのを待っているだけです」
とニコニコ微笑みながら言ったのだった。
「ロンメル元帥のお墓の前で、とても立派な日本の若者に会えてとても嬉しいです」と言って、おばあさんんは僕を褒めてくれた。
最後におばあさんは僕にこんなことを言った。
おばあさん「私は今日は本当に嬉しいんです。とっても素晴らしいことがありました」
僕「そうですか?何かいいことがあったんですか?」
「あなたに会えたのが嬉しいんです」
「僕に会えたのが嬉しいのですか?どうしてですか?」
「あなたは戦後生まれの若者で、まだお若いのに、ロンメル元帥のお墓を訪ねるために、わざわざ日本からここまで来たのでしょう?なかなか出来ることではないですよ。本当に立派だと思いますよ。あなたのような立派な若者に会えて、本当に嬉しいです」
それから、僕はその老夫婦の写真を撮らせてもらい、固い握手をしてから別れたのだった。
まあ、このような老人というのが、欧米では典型的だと言われている。僕は他のドイツ人の老人とも話をしたことがあるが、だいたいが、この老夫婦のような気さくで優しい方が多かった。元ドイツ兵のおじいさんというのも、一部の例外を除くと若者と冗談を交えて話をするのが大好きで、話しかけやすい人達だった。他のドイツ人の友達と話をしても、「ほとんどのお年寄りというのは、その2人のように優しくて若者に色々とアドバイスをしてくれるのではないのか?俺が知っているドイツ人のお年寄りは、優しくて若者と話すのが好きな人が多いぞ」と言っていた。欧米人に言わせると、日本の老人はどうもステレオタイプ過ぎるようだ。自分の尊属を悪く言うのは気が引けるが、僕のおじいさん、おばあさんというのもかなりのステレオタイプの人だった。
一方で僕のおじいさんとおばあさんはステレオタイプの頑固者で、年下の子供と孫たちの言うことは絶対に聞かないので家族と親戚の多くが嫌っていた。
僕の父方のおじいさんは1994年10月に亡くなったが死ぬ直前まで、
「大日本帝国の方がよっぽどマシだった。戦後の自由社会は気に入らない。自由になり過ぎて、愛国心と滅私奉公の考えがなくなってしまった」
と言っていた。僕の父が最後に一目会おうとおじさんが入院している病院にお見舞いに行っても、
「何をしに来た!お前の仕事はどうしたのだ?!お前は仕事をさぼりたいから、父の看病などという口実を会社に言って、ここに来ているんだろう?ワシの看病は病院の先生と看護婦が充分にやっているから、お前は職場にとっとと帰れ!だいたい、ワシはお前の仕事ぶりを昔からよく見ていたが、ワシに比べるとお前の仕事は全くなっておらんぞ!」
と怒り出して、見舞いに来た人たちを追い返そうとする始末だった。
だから、おじいさんの葬式の時には、介護をしていたおじさん(父の弟)一家の顔には、安堵の表情すら浮かんでいたのだった。泣いていたのは、多感な女子高校生の従姉妹一人だけだった。そして、母方のおばあさんは、母と僕と兄と一緒に住んでいて、2008年に91才で亡くなった。だが80才を過ぎても、
「私はこの家の主婦です」
という考えを捨てようとせず、認知症に罹った後も、
「私が家事をしないとこの家の人たちは困るから」
と言っては家族を困らせたのだった。
もちろん、日本の全ての年寄りがこのような頑固者ばかりだとは思わないし、頑固な年寄りにだけ家族崩壊の原因があるとは言えない。だけど。現在、働き盛りの人達、若者の本音を言わせてもらえば、
「どうして、欧米のお年寄りのように落ち着いてくれないのかな?70才を過ぎた老人は会社社長、政治家などのよっぽどの要職についていないなら、老後の生活を静かに送っていれば助かるんだけど。“老いては子に従え”という言葉を知らないのかな?お年寄りの経験や知恵が必要な時は、こちらから頼むので、その時は、もちろん、色々とアドバイスして欲しいけど」
という感じだろう。
とにかく、欧米と日本の老人ではかなりイメージ、言動などが違う。欧米の老人は敬虔なクリスチャンが多いので、60才を過ぎて子育てが終わったら、
「後は若い人達に任せよう」
という考えの人が多く、
「お前ら若者はワシらの若い頃に比べると、全然、成っていない。ワシらの若い頃はだな・・・!!」
などと、説教をする人はあまりいない。
僕が年寄りになったら、ドイツ人のお年寄りのように気さくで優しい年寄りになりたい。頑固者で説教ばかりをして若者に嫌われるような年寄りにはなりたくない。
色々と日本のお年寄りについて無礼なことを書きましたが、僕自身もいつかは老いる時が確実に来るので、その時は、「加藤隼戦闘隊」の一節のように、
「笑って散ったその心」
を大事にして、周りの人に気配りをしながら亡くなりたいと思います。戦争時の兵隊と平和時の民間人の生活は違いますが、周りの人達にお世話になったことに感謝して生活して、なるべく迷惑をかけずに亡くなるということが重要なのは同じことですので。
写真上はドイツのウルム市郊外のヘルリンゲンにあるロンメル元帥のお墓。写真下はロンメル元帥のお墓で会って話をした陽気で優しいドイツ人老夫婦。
最後に、僕のブログを訪れてくれてありがとうございます。今までにドイツに10回行って、ドイツに約1年間滞在した時に多くのドイツ人と交流した時の体験談以外にも、10試合ほどブンデスリーガの試合を観戦していて、ドイツサッカーが好きな方に対して興味深いブログ記事を書いているので、時間があったら他の記事も読んでみてください。ドイツ語の勉強の方法、ナチスドイツ軍関連の記事も書いていますし、これからもそういう記事を書いていきます。