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まとめ(14)ドイツで会った日本びいきのドイツ人

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まだドイツがマルク通貨を使用していた20年以上前は、日本びいきのドイツ人がかなり多かった。これは戦争の時にドイツ兵だったお年寄りが当時はまだ生きており、その子孫も日本に特別な感情を抱いてる人が多かった。

 

今日は過去に書いたブログ記事の中から、大の日本びいきのドイツ人と交流したことについてまとめた書こうと思います。今のドイツではあまりいないかもしれないですが、今から20年以上前でまだドイツがヨーロッパの統一通貨のユーロではなくてマルクを使っていた頃には、ある程度年輩のドイツ人にとっては日本=第二次世界大戦の同盟国というイメージが強くて、当時まだ30歳くらいだった日本人青年の僕がナチスドイツ軍の戦記を読んでいると、周りの年寄りのドイツ人も第二次世界大戦の話を始めるということがよくありました。これは20年ほど前のドイツの観光ガイドブックにも書いてあり、「第二次世界大戦時の同盟関係とその後の同じ敗戦国という歴史から、ドイツ人の中には親日的な人が多い」というコラムが書いてありました。

 

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この記事では、ドイツで偶然にも会った親日的なドイツ人について書いている。

 

僕がベルヒテスガーデンというヒトラーの山荘があった所に行って、山荘の一部だった親衛隊の詰所と地下ブンカーの跡の前を歩いている時だった。地下壕の見学を終えて、地下壕の出入口の前を歩いていると、出口から出てきた40代のドイツ人のおばさん(失礼)と目が合った。その女性はサングラスをかけて金髪で、身長が180センチ近い大柄の人だった。身長が164センチしかない日本人の僕の感覚からすると、ちょっと気が強そうな大柄な女性だった。

 

その女性は僕を見ると数年ぶりに恋人に再会したような嬉しそうなスマイルを浮かべて、僕にどんどんと近づいてきたのだった。この女性が白髪混じりの戦前生まれのおばあさんなら、
「日本人と第二次大戦の話をしたいのだろうな」
とすぐにわかったのだが、どう見ても戦後生まれのおばさんだったので、
「何で近づいて来るんだろうか?ベルヒテスガーデンには知り合いはいないから、何か勘違いしてるんだろう」
と本当に不思議に思ったのだった。だから、適当にこちらも微笑み返しをしておばさんの前を通り過ぎようとすると、おばさんはドイツサッカーの屈強なディフェンダーのように、僕の進路を塞ぐように微笑んで立ったのだった。僕はかなり困惑したが無視して通り過ぎることも出来なくなったので、
「グリュース ゴット」(こんにちは)
とバイエルン風に挨拶をして、おばさんと会話をすることにしたのだった。

 

それで、そのおばさんは夫であるおじさんと一緒だったので、2人と少しドイツ語で第二次大戦について会話をした。2人の家族名はSさんだった。特にお互いの家族が第二次大戦の時はどう過ごしたのかについて会話をした。でも、本当に不思議だったのはS夫妻はドイツ語しか喋れず、僕は少ししかドイツ語を喋れないのに、なんで日本人と会話をしたいとその2人は思ったことだった。

 

別れた後にS夫妻は目の前の坂を上っていったのだが、おばさんは2回も振り返って微笑みながら僕を見た。おじさんも同じように僕を見た。

「おばさんが一方的に東洋人の僕を見て日本人と決めつけて微笑んで近づいて来たけど、美人だから若い頃(失礼)はかなりモテたのだろうが、かなり陽気で天然な性格なんだな」

と僕は思った。

 

写真上は、S夫妻と出会ったベルヒテスガーデンの親衛隊の詰所と地下ブンカーの入り口。

 

 

2006年夏にドイツ人友達のH家に約1か月滞在した時に、近所に住む元ドイツ兵のAさんの家を訪れてナチスドイツ時代の話をした。元ドイツ兵のおじいさんといっても、別にハリウッド映画に出てくるような怖い人ではなくて、ごく普通の優しいお年寄りだった。

 

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このブログ記事では第二次世界大戦中はヒトラーユーゲントにいて、1945年1月から最前線で戦ったドイツ人のおじいさんと、おじいさんの家で会話をした時のことについて書いている。

 

僕は1999年春にシュツットガルト近郊に住むH家にホームステイしたことは他のブログ記事でも書いたが、それから6年後の2005年6月末に1ヶ月ほどの長めの休暇が取れたので、再びH家に滞在することにした。1999年春にH家にホームステイした時に、毎週金曜日の夜に近所の人たちが集まって行われるカードゲームに行って、近所に住んでいる2人の元ドイツ兵のおじいさんと友達になった。名前はAさんとEさんだった。それで、当然ながら2006年にH家に再び滞在した時もAさんとEさんと会話をしたかったのだが、H家はなかなか金曜の夜のカードゲームに参加出来ず、僕も金曜、土曜とどこかに出かけたりで、元ドイツ兵のおじいさんに会う機会がなかった。

 

だから、H家の電話帳を見ておじいさんの住所を調べて訪問することにした。ヨーロッパ人は突然友達が訪れたとしても、日本人のように迷惑には思わないことがあるということを僕は知っていた。1999年春にカードゲームで友達になった2人の元ドイツ兵のうち、Aさんの住所の方がわかりやすかったので、そちらの家に行くことにした。住所からすると近所のアパートに住んでいるとわかった。

アパートの入り口まで行くと、防犯のために住人の許可がないと入り口が開かないようになっていた。そこで僕は、Aさんの家の呼び鈴を押した。Aさんが応答したので、僕は自己紹介をして色々とドイツ語で言ったけど、Aさんに、
「何を言っているんだかよくわからん」
と言われてしまった。そこで、
「Hさんを知ってますか?僕はHさんの友達なんですが」
と言うと、やっと入り口を開けてくれた。

 

階段を上がってAさんの部屋の前まで行くと、見覚えのある恰幅のよいAさんがドアの前に立っていた。小柄な日本人の僕の姿を見て少し驚いたようだった。
「突然押しかけて来て本当に申し訳ありません。僕のことを覚えていますか?」
と聞くと、頷いて握手をしてきた。そして中に招き入れてきれた。

 

それで、Aさんと僕が持ってきた第二次世界大戦の本を見せながら話をしたが、よく覚えてるのは、僕が「ナチスドイツの時代にホルスト・ヴェッセル記念行進曲という歌がありましたね?当時は『第2のドイツ国歌』と呼ばれていたそうですが?」と質問すると、Aさんは「ハッハッハッハッハ!ホルスト・ヴェッセル!」と僕のことを指差しながら、大声で笑ったのだった。これは恐らく、「戦後生まれの日本人の君が、なんで『ホルスト・ヴェッセル記念行進曲』なんかを知ってるんだ。変わってる若者だ」という気持ちだったのだろう。

 

簡単にまとめると、ナチスドイツ時代に軍人だったおじいさんというのは、ごく普通の優しい老人だった。ハリウッド映画に描かれてるような殺し屋の悪魔ではなかった。

 

 

ドイツの港町であるハンブルクとキールには第二次大戦 時は海軍基地があり、ドイツ海軍に詳しい人が多かった。彼らは米英海軍と艦隊決戦をした日本海軍が好きな人が多く、日本海軍に詳しい人が多かった。

 

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このブログ記事では、ドイツの港町であるハンブルク、キールに行った時の体験談を書いてる。ハンブルク、キールは第二次大戦時は軍港として使用されていたので、ドイツ海軍関係者が多く住んでいて、ドイツ海軍商品を売る店があり、そういう人々は日本海軍に詳しい人が多かった。

 

ハンブルクで会ったドイツ海軍関連商品を売ってる店の30代の男性主人は、日本海軍の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」を知っていた。彼は「ドイツ海軍はUボートが主力で大型艦は少なかったから、米英海軍と艦隊決戦をした日本海軍が大好きなんだ」とほほ笑んで言っていた。

 

キール付近のラボエにある「ドイツ海軍記念館」の近くで昼飯を食べていたら、70代から80代のお年寄り4人グループが僕の隣のテーブルに座って会話を始めた。当時の僕はまだドイツ語がよくわからなかったが、1人のおばあさんがはっきりと「ヤマモト、ミッドウェー」という言葉を言った。それだけはよくわかった。

 

 

以上、今日はドイツで会った日本びいきのドイツ人について過去のブログ記事をまとめてみました。しかし、これらのブログ記事は1997年から2005年の頃の体験記を記事にしてるので、今のドイツに行っても簡単に日本びいきのドイツ人には会えないかもしれません。でも、ドイツには日本が大好きなドイツ人が多いことは確かです。