
- 1999年春にシュツットガルト近郊に住むH家にホームステイをしてドイツ語を勉強した時に、ミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所跡地を見に行った。でも、雰囲気があまりにも残酷だったので1時間ほどしか滞在できなかった。
- ホームステイをしていたH家に帰った時には、当時50代だったH夫妻は2人ともドイツ兵の息子と娘だったから緊張した表情で僕を迎えたが、僕がナチスの戦争犯罪を責めるようなことは言わなかったので、夫妻は「我々も家族でダッハウに行ったことがあるんです」と笑顔で行った。
1999年春にシュツットガルト近郊に住むH家にホームステイをしてドイツ語を勉強した時に、ミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所跡地を見に行った。でも、雰囲気があまりにも残酷だったので1時間ほどしか滞在できなかった。
僕は1999年春にシュツットガルト近郊に住むH家にホームステイしながらドイツ語の勉強をしたけど、週に一度はドイツ各地を日帰りで旅行をしていて、4月末にはミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収容所跡地を見に行った。シュツットガルト近郊に住むH家からは電車で1時間位でダッハウに着いた。上の写真は収容所跡地に立つ記念碑。僕が現地で撮影した写真もあるのだが、デジカメではなくてフィルムのカメラで撮影したので、写真をスキャンしないといけないのでブログにはアップしない。
1999年春は、有名なホロコースト映画の「ライフ・イズ・ビューティフル」がヒットしていた時期だったので、イタリア人がたくさん強制収容所跡地に来ていた。また、収容所の入り口付近には[Der Freiwillige](ボランティアガイド)という名札を付けたおじいさんが数人いて、収容所生活がどんなものだったのかを説明していた。ダッハウ収容所は初めからユダヤ人などを殺害するために建設されたアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなくて、最初は反ナチス運動を行っていた政治犯を収容していた収容所なので、恐らく、収容所に収容されて生き残ったドイツ人のおじいさんたちだろう。
収容所跡地には博物館のような建物はなくて、ナチス時代の収容所の様子をそのまま再現していて、収容者が生活していたバラック、ガス室などが再現されて建っていて、火葬場の跡地もあった。ナチスの収容所で有名な[Arbeit Macht Frei](労働すれば自由になる)と書かれた門もあって、多くの観光客はその文字が書かれた門の写真を撮影していた。
こういう歴史的な負の遺産の場所にはなるべく長く留まって、過去に殺し合いをした人類の愚かさとかをよく知るべきだとか思ったが、こういう場所に実際に行ってみればわかるが、とにかく雰囲気があまりにも悲惨で残酷なので1時間ちょっと見学したのが限界だった。2007年7月にポーランド人のメル友だった女性と、彼女が住むシュチェチンで会って話をしたことがあるのだが、彼女も「アウシュビッツ収容所跡には行ったことがない。行ったことがある友達に話を聞いたら、現地の雰囲気はあまりにも暗くて気が変になりそうでトラウマになったと言っていたから」と言っていた。
ただ、収容所を見学してすごく気になったのは、ダッハウ収容所跡地は住宅街の中にあり、道路一本隔てた隣にはたくさんの住宅が建っていて人が住んでいたことだった。火葬場の跡地付近にも住宅が建っていて、おじさんが住宅のベランダで新聞を読んでいた。「ドイツ人は強制収容所跡地という、気味が悪い場所の隣に住宅を建てるのを躊躇しないのだろうか?自分は絶対にこんな所には住みたくないな」と思った。(苦笑)
ホームステイをしていたH家に帰った時には、当時50代だったH夫妻は2人ともドイツ兵の息子と娘だったから緊張した表情で僕を迎えたが、僕がナチスの戦争犯罪を責めるようなことは言わなかったので、夫妻は「我々も家族でダッハウに行ったことがあるんです」と笑顔で行った。
H家に帰った時には強制収容所跡地の見学から帰ってきたということで、H家夫妻はちょっと緊張した表情で僕を出迎えた。ちなみに、負債は共に親衛隊ではなくて徴兵されたドイツ軍兵士の息子と娘だった。主人の父は戦争で亡くなっているので主人は父を知らない。でも、僕が「ダッハウ収容所跡地を見てナチスドイツの戦争犯罪に本当に腹が立った」というようなことは言わなかったので、2人とも「我々も過去に家族でダッハウに行ったことがあるんですよ」と笑顔で言った。当然ながら、ドイツ人とナチスの戦争犯罪について話す時は、特に同盟国だった日本人は慎重にならないといけない。