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有能な作家で無能な軍医だった森鴎外

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森鴎外は「有能な作家だが無能な軍医だった」と言われている。 ドイツに留学してコッホから医学を学んだ鴎外は「病気の原因は病原菌なので、脚気にも病原菌がある」と信じて、「脚気の原因はビタミン不足」とする説を採用しなかった。結果、日露戦争では多くの陸軍兵が脚気で死亡した。

 

 

去年の4月に日本のお札の紙幣に新しく渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の3人が決まった。夏目漱石、野口英世と来て、次の千円札は森鴎外かとも予想していたが、やはり森鴎外はお札の顔には使われずに、彼のライバルの北里柴三郎が使われた。鴎外の子孫は無念かもしれない。

でも、森鴎外についてはドイツ留学時代にドイツ人女性と恋愛していたこともあり、ドイツ語がしゃべれてドイツ人女性と付き合ったこともあるので、僕とも共通点があるので色々と調べてたら「これではお札の顔には使われないな」と思った。写真の一番左側に軍服を着て写っているのがベルリンに留学していた頃の若き森鴎外。

 

 

森鴎外の一般的な評価は「有能な作家、無能な軍医」である。森鴎外は軍医としてはロクな仕事をしてない。以下はウィキペディアからの引用。

軍医として

(中略)

ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、日本海軍の多くと日本陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。鷗外が麦飯支給に否定的だった一因として、日本国内の麦の生産量が少なく自給できていないということが挙げられる。数十万人単位で存在する陸軍の兵食は、国内で自給できる食物で賄うべきだという考えは一概に否定されるものではない。[独自研究?]そもそも、鷗外は「日本兵食論大意」において「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」としている。鷗外自身はあくまで陸軍軍医として兵食の栄養学的研究を行っていただけで、脚気の研究をしていたわけではない。鷗外は脚気の原因についての確たる理論や信念を持っておらず、門外漢であるがゆえに、当時の学術的権威の説(これが間違っていたのだが)を採用したのではないかと思われる。

日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日、第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。

 

ja.m.wikipedia.org

 

 

要するに、森鴎外は日本陸軍第2軍の軍医長でありながら、「脚気の原因はビタミン不足ではなくて脚気菌という細菌が起こすものだ」と盲信していて、陸軍兵に白米ばかりを食わせてパンと麦飯を食わせずに多くの陸軍兵を脚気で殺してしまったのである。「日本陸軍兵を一番殺したのはロシア軍の銃弾ではなくて、森鴎外の脚気に対する誤った認識のせいだ」と、脚気の原因はビタミン不足という結論が出た後に言われた。一方、パン食と麦飯を導入していた海軍の水兵の脚気での死者はゼロだった。

さらに、森鴎外は東大医学部卒で陸軍軍医総監まで出世したので、山県有朋などの長州出身の陸軍長老からの評価も良かったので、東大医学部卒の中でもライバルの北里柴三郎とその弟子の野口英世などをあまり評価しておらず、彼らが東大を始めとする国立大学の医学部で研究活動をするのを妨害したとも言われている。これに困って怒った北里は、「政府が作った大学の医学部だけではダメだ」と思って、北里大学医学部、慶応大学医学部などの私立大学医学部の設立に努力をして、日本国中に私立大学医学部が設立される原因となった。

 

 

一方で鴎外は作家としては多くの名作を残して、文芸誌発行を通じで多くの作家と交流があり、リベラルな思想の持ち主だったので大正デモクラシーも支持した。

 

一方、鴎外は作家としては非常に有能な足跡を残している。日露戦争後に日本でもヨーロッパのように無政府主義者と共産主義者が活躍するようになると、政府はこれを弾圧しようとしたが鴎外は山県有朋に、
「人間が脳の中で考えること、それに本を読むことまで政府が規制するのは間違っています」
と進言をして、彼らの活動にある程度の理解を示した。

また、森鴎外の文学界の弟子には共産主義者の石川啄木と右翼主義者の与謝野鉄幹の2人がおり、この思想の違う2人が森鴎外が中心となった文学者の集会で談笑をしていたことすらあったという。

 

以下、ウィキペディアの説明。

1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」とした上で、

無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。

と結んだ。

 

こういう事実を見てくれば、「有能な作家、無能な軍医の森鴎外」という評価がよくわかると思う。僕も「獅子のごとく」という1978年放送の森鴎外が主人公(演じたのは江守徹)のドラマを見て、晩年の森鴎外は軍医としての仕事はあまりしておらず、山県有朋のお気に入りの外国語に堪能なマルチリンガルの秘書という仕事をしており、山県を始めとする政府関係者による文学に対する弾圧から日本文学と言論の自由を守るための仕事ばかりしていた、という事実を知った。

山県を始めとする帝国政府の元老は幸徳秋水などの共産主義者と無政府主義者を弾圧しようとして、文学も徹底的に検閲を行って取り締まろうとしたが鴎外は、
「言論と文学の自由を奪う国は成長しない」
と政府に反論して、文学と言論の自由を守ろうとしたのだ。鴎外は60歳で亡くなってしまったが、これだけリベラルな鴎外がもし80歳くらいまで生きていたら、少しは大日本帝国の歴史は変わったかもしれない。


最後に鴎外は、自分を追ってドイツから来日してエリーゼ・ヴィーゲルト(「舞姫」に登場するエリスのモデルの女性)がくれたというハンカチを死ぬまで大切に持っていたので、かなり未練があったと書いておく。最初に結婚をした西周の娘との結婚が破綻したのも、エリスのことが忘れられなかったからであり、自分の子供に於菟(おっと)、茉莉(まり)、杏奴(あんな)、不律(ふりつ)、類(るい)というドイツ風の名前を付けている。どうやら死ぬまで鴎外はエリスと文通をしていたらしいけど、詳しいことは森家の方で証拠隠滅をしたのでよくわかってない。(苦笑)


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写真はベルリンのフリードリッヒ通り駅の近くにある森鴎外記念館内に再現された、森鴎外のデスク。畳がある居間も再現されていた。ここで、ドイツ人女性のエリス嬢と会話をしたり色んなことをしていたのだろう。