●第二次大戦の時にドイツ兵だったおじいさんとの交流は他のブログにも書いたが、ここではナチスドイツ時代にヒトラーユーゲントに所属していて、1945年1月から最前線で戦ったおじいさんとの会話を紹介する。
●おじいさんは名前をAさんといったが、ヒトラーユーゲントに入ったのは「当時はそうであるべきだという雰囲気が強かったので入った」と言っていた。「日本でも、『男子は喜んで兵隊になるべきだという雰囲気があった』とおじいさんに教えると、頷いていた。
●「基本的に日本とドイツは戦争に至るまでの過程、戦争当時の全体主義の風潮は全く同じですね」と僕が言うと、おじいさんは頷いていた。そして、僕の訪問を喜んでくれた。
●ナチスドイツ時代に歌われていた「ホルスト・ヴェッセル祈念行進曲」などの話をすると、おじいさんは大笑いして、「そんな歌を公共の場所で歌ったら、ドイツでは人生は終わりだよ」と言っていた。
初めの出会いから6年後に、元ドイツ兵のおじいさんの家を突然訪問したが快く家に迎えてくれた
僕は1999年春にシュツットガルト近郊に住むH家にホームステイしたことは他のブログ記事でも書いたが、それから6年後の2005年6月末に1ヶ月ほどの長めの休暇が取れたので、再びH家に滞在することにした。その時に、毎週金曜日の夜に近所の人たちが集まって行われるカードゲームに行って、1999年春の時に友達になった、近所に住んでいる元ドイツ兵のおじいさんに再び会って話をしようと思った。ところが、H家はなかなか金曜の夜のカードゲームに参加出来ず、僕も金曜、土曜とどこかに出かけたりで、元ドイツ兵のおじいさんに会う機会がなかった。
だから、H家の電話帳を見ておじいさんの住所を調べて訪問することにした。ヨーロッパ人は突然友達が訪れたとしても、日本人のように迷惑には思わないことがあるということを僕は知っていた。
Aさんの住所の方がわかりやすかったので、そちらの家に行くことにした。住所からするとアパートに住んでいるとわかった。
アパートの入り口まで行くと、防犯のために住人の許可がないと入り口が開かないようになっていた。そこで僕は、Aさんの家の呼び鈴を押した。Aさんが応答したので、僕は自己紹介をして色々とドイツ語で言ったけど、Aさんに、
「何を言っているんだかよくわからん」
と言われてしまった。そこで、
「Hさんを知ってますか?僕はHさんの友達なんですが」
と言うと、やっと入り口を開けてくれた。
階段を上がってAさんの部屋の前まで行くと、見覚えのある恰幅のよいAさんがドアの前に立っていた。小柄な日本人の僕の姿を見て少し驚いたようだった。
「突然押しかけて来て本当に申し訳ありません。僕のことを覚えていますか?」
と聞くと、頷いて握手をしてきた。そして中に招き入れてきれた。
元ドイツ兵のおじいさんは戦時中ヒトラーユーゲントにいて、戦争後期に最前線で戦っていた。
僕はドイツ軍に関する本、インターネットで見つけたナチス時代の資料を印刷したものを持っていたので、それらを見せながらAさんと色々と話をした。
「あなたは第二次大戦時にドイツ兵だったと聞きましたが」
「私はね、1945年1月から前線に投入されたんだよ」
「当時はまだ17才ですよね。どのようにして前線に行ったのですか?」
「当時、ヒトラーユーゲントにいたんだよ」
「そうですか。ヒトラーユーゲントにいたんですか」
(Aさんは緊張した顔をして)「当時はね、ドイツの若者はそうでなければならなかったんだよ」
「前回お会いした時に、あなたのお兄さんは武装SSの『プリンツ・オイゲン義勇山岳師団』にいたと言ってましたが」
(Aさんは少しため息をついて)「私の兄は、初めは武装SSの『ライプシュタンダルテ・SS・アドルフヒトラー師団』にいたんだよ。その後、『プリンツ・オイゲン』に移ったんだよ。」
「『プリンツ・オイゲン』師団にいたということは、ユーゴスラビアでパルチザンと戦っていたのですね」
「そうだよ」
「あの、こういう第二次大戦の話が嫌だったら止めますが」
「いや、その必要はないよ」
「僕の母方のおじいさんは第二次大戦で戦病死しました。その未亡人のおばあさんは今では重度の認知症ですが、第二次大戦の頃に日本には天皇、ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニという立派な人がいたということはよく覚えているようです。昔のことはよく覚えているようなんです。あと、父方のおじさんは1994年に亡くなりましたが、『第二次大戦の時には、日本、ドイツ、イタリアは何も悪いことはしていない。悪かったのは連合国側の方だ。特に、中国とソ連は最悪だった』と死ぬまで言ってました。僕は戦後生まれなので、こういう年寄りの方々の考えはよくわかりませんでしたが」
Aさんは緊張した顔をして頷いた。
ナチスドイツ時代に歌われていた「ドイツ国歌第一番」と、「ホルスト・ヴェッセル記念行進曲」について話した。
それから、インターネットで見つけたナチスドイツの軍歌をプリントしたコピー用紙を見せながら、僕が、
「かつて、『ホルスト・ヴェッセル祈念行進曲』という歌がありましたが・・・」
と言うと、Aさんは机を叩いて笑いながら僕を指で差して、
「ハッハッハッ!!ホルスト・ヴェッセル!!ホルスト・ヴェッセル!!」
と叫んだのだった。これは、恐らく、
「戦後生まれの日本人なのによくそんな歌を知っているな」
ということだったのだと思う。
「僕は別にネオナチではなく、単に、高校大学時代にドイツの現代史を習った時にこの歌を知ったのですが」
「『ホルスト・ヴェッセル祈念行進曲』なんて、今のドイツでは歌った瞬間に逮捕されるんだよ。ナチス時代の歌は、ほとんどが法律で禁止されているからね」
「日本にも第二次大戦時に多くの軍歌がありましたが、禁止されていません。そのほとんどの歌の内容は、『我々、日本兵と日本人は、天皇陛下と大日本帝国のために喜んで死ぬべきだ』という内容です。ナチスドイツと全く同じですよね」
Aさんは黙って頷いた。
「ドイツ国歌というのは第二次大戦に負けるまでは、[Das Lied der Deutschen]『ドイツ民族の歌』の1番を歌っていて、[Deutschland, Deutschland, ueber alles,]『ドイツ世界に冠たる帝国』という歌詞でしたね。戦後は3番が国歌になったので歌詞が変わりましたが」
「『ドイツ民族の歌』の1番には、『マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト川まで全てドイツの領土だ』という歌詞があるけど、それらがもうドイツ領ではなくなったので、歌えなくなったのだよ。1番を歌うのも法律で禁止されているんだよ。それに、ユーロという共通通貨の導入で、EUによる統合の機運と意見が高まっているからね」
このように、僕とAさんの話は続いた。ひょっとしたら迷惑な話だったかもしれないが、Aさんは僕が帰る時にはニコニコ笑って握手してくれた。そして、
「H家の奥さんにおみやげを持っていってくれないか。ハンガリーの友達の家に行った時に、一人では食べきれない大きなハムと魚をもらったんだ」
と言って、僕に渡してくれた。さらに、なぜか財布から10ユーロを取り出して僕にくれた。
Hさんの家に帰って、
「Aさんの家に、突然、お邪魔してしまったのですが」
と言うとH夫妻は、
「あらかじめ約束して伺った方がよかっただろうけど、Aはオープンな人だから、まあ、そんなに失礼でもないだろう」
と言っていた。そして、当然ながら、おみやげの食材を喜んだ。10ユーロくれたことについては笑いながら、
「Aは君が小柄で童顔なので、まだ大学生だろうと誤解したんだろう」
と言っていた。(苦笑)
その後、H家の夫妻とも「ホルスト・ヴェッセル祈念行進曲」、「ドイツ民族の歌;第1番」について話をしたが、主人は、
「別に法律で禁止されているのではないよ。ただ、最近はそういう歌を歌う人が減っているだけなんだよ。別に歌ったらすぐに逮捕されるなんていうことはないよ」
と言っていた。
でも、仙台在住のドイツの弁護士の資格を持つドイツ人の友達は、
「そういうナチス時代の歌は、法律により公共の場で歌うのは禁止されている」
と言っている。
元ナチスドイツ軍の兵隊だったおじいさん達は会って会話すると、ごく普通の人達ばかりだった。
最後にまとめると、僕はドイツにいた時に数人の元ナチスドイツ軍の兵隊だったおじいんさんたちと会話をしたが、ごく普通の方々であり、若者と話をするのが大好きな優しい方々だった。ハリウッド戦争映画、本屋で売られている戦記に描かれているような、「無敵!鋼鉄のゲルマン戦士」というイメージではなかった。ただし、ドイツのお年寄りはかつて同盟国だった日本人にはとても親切だということが、他のドイツに詳しい日本人の方々の話からもわかっているが、日本人以外の外国人に対しては、どうなのかはわくわからない。旧連合軍だったアメリカ人、ロシア人などにはあまりいい印象を抱いていないことは会話からわかったが、ユダヤ人、ホロコーストなどに対してどう思っているのかは、相手を怒らせる危険性があるので質問したことがない。
最後に僕のブログを訪れてくれてありがとうございます。子供の頃からティガー戦車、メッサーシュミット戦闘機などの模型を作っているドイツ軍マニアなので、ナチスドイツ軍に関するブログ記事を他にも書いてます。さらに、ドイツで10試合ほどブンデスリーガの試合を観戦していて、ドイツサッカーが好きな方に対して色々と興味深いブログ記事を書いているので、できれば他の記事も読んでみてください。ドイツ語の勉強方法、ドイツ人家庭にホームステイした時の体験談も書いていますし、これからもドイツ関連のブログ記事を書いていきます。