- 2007年9月にドイツ人友達4人と一緒に会津を訪れたが、彼らには「仙台人は伊達政宗が会津の芦名家を滅ぼしたことがあったので、会津ではあまりよく思われていない」と教えた。
- 会津に行った日は「会津まつり」の日だったが、城を出発する時の大名行列はだらだらと歩いていたので、ドイツ人たちはガッカリしていた。
- ドイツ人がとてもびっくりしたのは、白虎隊が自刃をした飯盛山に展示されていた1928年にイタリアのムッソリーニから贈られた記念碑と、1935年に日本駐在のドイツ人外交官から贈られた顕彰碑である。どちらも会津藩のために命を捧げた白虎隊を讃えていた。
- 周りにいた日本人観光客の中には、「ここでイタリアとドイツから贈られた顕彰碑を見て、ドイツ人と会話もできて、日独伊同盟を確認できたのは嬉しい」と言う人もいた。
2007年9月にドイツ人友達4人と一緒に会津を訪れたが、彼らには「仙台人は伊達政宗が会津の芦名家を滅ぼしたことがあったので、会津ではあまりよく思われていない」と教えた。
2007年9月にドイツ人の友達4人と一緒に会津にバスで旅行をした。友達4人といっても2人は当時は東北大学で淳教授をしていたSと妻のMで、他の2人は彼らの友達であり、こちらもカップルだった。それで、そのカップルとは会津に行く朝に仙台駅前のバiフ軍ス停で初めて会ったのだった。
会津に行く前に4人のドイツ人に、「仙台人は会津人からあまり良く思われていない。仙台の伊達家は戦国時代に会津の大名である芦名氏を滅ぼしてしまい、幕末の時には会津藩が官軍(明治新政府軍)と凄まじい戦いをしている時に、仙台藩は会津藩を見捨てて援軍を送らずに官軍に降伏してしまった」という歴史を教えた。ドイツ人たちは苦笑いをしていた。
会津に行った日は「会津まつり」の日だったが、城を出発する時の大名行列はだらだらと歩いていたので、ドイツ人たちはガッカリしていた。
それで会津に着いたら、まずは定番の会津城を見に行った。その日は9月22日であり会津戦争で会津藩が降伏した日だったので、「会津まつり」が行われていて、会津城からは大名行列が出陣していた。でも、ドイツ人たちは城から出る侍の姿をした男女たちが大人しく歩いているのを見て、「やる気がないんじゃないの?」と言って笑っていた。「繁華街を歩いてもっと見物人が多い所だと、大声をあげたりするだろう」と僕は説明をした。写真上は会津鶴ヶ城で、ドイツ人たちは「姫路城、大阪城に比べると・・・」ということを語っていた。彼ら4人は日本で働いているくらいだからインテリのドイツ人であり、既に日本各地を旅行していた。
その後、会津の武家屋敷、白虎隊のお墓がある飯盛山などを会津市内を巡回するバスに乗って見て回った。会津武家屋敷では家老だった西郷頼母の家族が集団で自刃した様子が蝋人形で再現されていたが、それを見てTの妻のMは、「家族が集団自殺するシーンを人形で再現するなんて狂ってる!」と怒鳴り、すぐにその場所から走り去った。
それから、バスに乗って移動をしていた時には、その日の朝に知り合ったドイツ人のカップルのうちの男性の方が席に座ったのだが、女性の方は立っていたけど急に男性の膝の上に座った。このように恋人2人でバス電車などに乗っていて、女が男の膝の上に座ることはヨーロッパではよくあることなのだが、日本では当然ながらないことなので、隣に座っていた現地の若い女性はちょっとビックリしていたようだった。(笑)
ドイツ人がとてもびっくりしたのは、白虎隊が自刃をした飯盛山に展示されていた1928年にイタリアのムッソリーニから贈られた記念碑と、1935年に日本駐在のドイツ人外交官から贈られた顕彰碑である。どちらも会津藩のために命を捧げた白虎隊を讃えていた。
それで、会津の観光の最後に訪れた白虎隊のお墓がある飯盛山で、ドイツ人たちにはかなり驚くものが展示されていた。一つは写真上のイタリアの独裁者ムッソリーニから1928年に送られた「会津藩士と白虎隊を讃える記念碑」である。この記念碑には「白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある」というイタリア語の碑文が彫られている。友達のSはイタリア語が少しわかったので、その碑文の意味がわかったようだった。写真に写っている女性は、ドイツ人カップルの女性である。
そして、さらにドイツ人たちを驚かせたのは、1935年に日本に駐在していたドイツ人外交官であるハッソー・フォン・エッツドルフが、白虎隊を顕彰するために寄贈した記念碑である。フォン・エッツドルフはナチス党員だったが、第二次大戦中は反ヒトラー派としての活動もしていたらしい。イタリア、ドイツといった当時の大日本帝国と同じような全体主義、ファシズム国家の政府高官が会津戦争で戦死した会津藩士と白虎隊に感動したのは、ある意味当然のことであり、10代の若者たちまでもが自分の命を会津藩に喜んで捧げたことを、ファシズムの政治家たちは「自分たちの国の若者もそうであるべきだ」と思い、美談として高く評価したのだろう。
周りにいた日本人観光客の中には、「ここでイタリアとドイツから贈られた顕彰碑を見て、ドイツ人と会話もできて、日独伊同盟を確認できたのは嬉しい」と言う人もいた。
それで、僕と4人のドイツ人がイタリアとドイツから贈られた記念碑の前で話をしていると、周りの日本人観光客も集まってきて、「私たちは日本人であなたたちはドイツ人で、ここにはイタリアとドイツから贈られた記念碑がある。ここで、日独伊軍事同盟を確認できたのは本当に嬉しいです」とほほ笑んで話すおじさんもいた。友達のSは上のエッツドルフの記念碑について、「鉤十字(ハーケンクロイツ)はドイツでは禁止だけど、この鉄十字は禁止ではないです」と日本語で説明していた。もちろん、ドイツ人友達の日本語は不十分で、日本人たちはドイツ語と英語が喋れなかったので、詳しい説明は僕が通訳をした。
その後、仙台行きのバスは午後6時頃に出発だったので、会津駅前の喫茶店で談笑をして時間を潰してからバスに乗って、仙台に帰ってきたのは午後8時頃だった。