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バルジの戦いのまとめ記事

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今日はクリスマスイブですが、僕のようなドイツ軍びいきの軍事マニアにとっては、1944年12月16日から始まった「バルジの戦い」(ドイツ軍の作戦名は”ラインの守り”[Die Wacht am Rhein])が終息となった時期なので、この戦いについて過去に書いた記事をまとめて紹介しょうと思います。僕が2012年10月に実際に「バルジの戦い」の中心地となったベルギーのバストーニュを訪れたことがあるので、その時に撮影した写真をアップしながら、紹介しようと思います。

 

 

こちらが過去に書いた「バルジの戦い」の記事。バストーニュで撮影した写真を掲載して説明をしている。再掲載になるけど、僕が過去に書いたブログ記事をまだ読んだことがない人もいると思うので再掲載します。

 

deutschland-lab.hatenablog.com

 

 

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バストーニュ中心部には戦いで破壊された米軍のM4シャーマン戦車、米軍指揮官のマッコリーコフ准将とパットン大将の銅像が展示されていた。

 

 

写真上はバストーニュ市中心部の広場に展示されてるM4シャーマン戦車。名前は「バラクーダ」号という。ドイツ第5機甲軍がバストーニュに包囲攻撃を始めた時に、最初に破壊された戦車だという。

 

 

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この写真は「バラクーダ」号の側面であり、ここからドイツ軍戦車の75ミリ砲弾が貫通して戦車は破壊されたという。だが、乗員は全員が脱出することができて、ドイツ軍の捕虜となって治療を受けた。彼らは戦後まで生き延びた。

 

 

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この写真はドイツ第5機甲軍にバストーニュ市内に包囲されたが、ドイツ軍の降伏勧告を拒否したアメリカ第101空挺師団砲兵指揮官のアンソニー・マッコリーコフ准将の銅像である。

 

101空挺師団長のテイラー少将は不在だったので、代わりにマッコリーコフが師団の指揮を執っていた。ドイツ軍の降伏勧告に対してマッコリーコフが[Nuts!]「バカめ!」と答えたのは、第二次大戦史上であまりにも有名な話である。この話はアメリカ兵の勇敢さを示すエピソードとして知られてるが、ドイツ軍が降伏勧告をした12月22日には、12月16日から大攻勢を始めたドイツ軍の弾薬、食料が不足し始めており、状況はアメリカ軍側に有利になりつつあることをマッコリーコフは知っていたので、冷静に判断して[Nuts!]という回答をしたのだった。

 

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この写真はドイツ軍によってバストーニュに包囲されたアメリカ第101空挺師団を解放した、アメリカ第3軍指揮官のパットン大将のレリーフであり、これもマッコリーコフの銅像と同じように、バストーニュ市の中心部に立っている。

 

パットンが率いた第3軍がバストーニュを解放したことは、映画「パットン大戦車軍団」などにも描かれていて、これは第二次大戦史上でとても有名なことでありパットンの戦略眼の優秀さを表している。だが、第3軍がバストーニュを解放した12月26日には、既にドイツ軍のアルデンヌ地区における攻撃は失敗しつつあったので、天候が回復してアメリカ軍が空軍の支援を受けれるようになると、アメリカ軍が反撃攻勢に出れたのは当然のことである。

 

 

バストーニュ郊外にはM10ウォルヴァリン駆逐自走砲が、バストーニュの隣のウーファーリズにはドイツ軍のパンター戦車が展示されていた。

 

 

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これは、バストーニュ市の郊外に展示されているアメリカ軍のM10ウォルヴァリン駆逐自走砲である。戦後にアメリカ軍が建てた大きな記念碑の近くにある。僕が2012年10月にバストーニュ市に行った時にはなかったが、今ではバストーニュ市には軍事博物館があるので、そこに展示されてるらしい。

 

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これは、バストーニュの隣のウーファーリズという町の広場に展示されてるドイツ軍のパンター戦車である。ドイツ第5機甲軍はバストーニュを完全に包囲したが占領できなかったので、バストーニュの周囲に燃料切れとなった多数の戦車を放棄して退却した。映画「バルジ大作戦」のラストでも、燃料切れとなった多くのドイツ軍戦車が戦場に放棄された様子が映されている。ドイツ軍のパンターとティガー戦車は米英軍の戦車よりも強力だったが、燃料切れと弾薬切れでは全く役に立たなかった。

 

 

バストーニュ中心部には米軍101空挺師団の元司令部の建物が博物館となって建っていて、バルジの戦いを説明していた。一方でバストーニュ歴史博物館にはドイツ軍側の展示もあって、隣国ドイツとの相互理解が進んでいた。

 

 

 

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この写真はバストーニュ中心部にある第101空挺師団の博物館である。実際に101空挺師団がバストーニュ攻防戦の時に司令部として使用していた。中には兵隊の蝋人形などで時の戦いの様子が再現さていて、さらに、多くの写真とドキュメントで説明がなされている。

 

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これが博物館の内部であり、米軍ドイツ軍の軍服の展示と地図とドキュメントによる「バルジの戦い」の説明がなされている。写真に写っている老人たちは英語をしゃべっていたのでアメリカ人だったと思うが、2012年ということを考えると実際に第二次大戦に参加した老人たちではなかったと思う。

 

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この写真はバストーニュ歴史博物館に展示されていたものであり、現地のベルギー市民にとってはバルジの戦いにおける悪役だったドイツ第5機甲軍の司令部を再現した展示だと思う。アルデンヌにおける攻勢全体の指揮を執ったフォン・ルントシュテット元帥と、バストーニュを包囲した第5機甲軍司令官のフォン・マントイフェル装甲兵大将の写真が展示されていた。このように戦後60年以上が経って、ベルギーのバストーニュ市民にとってはドイツは必要な隣人になっており、ドイツ側との和解を進める展示も見られた。

 

 

バストーニュ郊外のアルデンヌ森林を見ると起伏がある丘陵地帯であり、ドイツ軍主力のパンター、ティガー戦車が活躍できる地形ではなかった。1940年5月の電撃作戦の時は軽量なⅢ号Ⅳ号戦車が主力でドイツ軍が制空権を握っていたので、ドイツ軍は勝利したのだった。

 

 

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この写真は戦後にアメリカ軍が建てた巨大な記念碑から、ドイツ軍が攻撃をかけてきたバストーニュ市東部の丘陵地帯を写したものである。見ればわかるようにこのような起伏が激しい丘陵地帯は、パンター、ティガー戦車といった50トン前後の重い戦車にとっては、素早い快進撃には向いてなかった。1940年5月にドイツ軍機甲部隊はアルデンヌ森林地帯を抜けてセダンを占領して、そこからさらにダンケルクまで快進撃をして英仏連合軍を海に追い落とした。そして、フランスはアッという間に降伏した。1944年12月に行われた「バルジの戦い」は1940年5月の電撃的攻勢の再現を狙ったものだったが、その時はドイツ機甲部隊の主力は軽量で高速なⅡ号、Ⅲ号、Ⅳ号戦車であり、パンターとティガーではなかった。また、ドイツ軍側が制空権を握っているという大きな違いもあった。

 

連合軍に追い詰められたナチスドイツ軍は主にヒトラー総統が中心となって、[Die Wacht am Rhein](ラインの守り)作戦を発動したのだが、実際は作戦が始まる前から攻勢の指揮を執った西方総軍司令官のフォン・ルントシュテット元帥ですら、「この作戦は絶対に成功しない」ということがわかっていたという。ドイツ軍はこの作戦で貴重な機甲部隊主力の多くの戦車を失い、ナチスドイツの降伏を早める結果になった。