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ノルマンディー戦線で戦った元ドイツ兵おじいさんと戦車博物館で会話をした

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昨日は日本のテレビでも報道されていたけど、ノルマンディ上陸作戦から80周年記念日だったので、ノルマンディ上陸作戦に実際に参加したアメリカとヨーロッパの国々の首脳が、フランス北部のノルマンディに集まって式典を開いていた。でも、ウクライナのゼレンスキー大統領は招待されても、NATOと戦争をしているプーチン大統領は招待されなかった。当たり前のことだけど。

 

しかし、ノルマンディー上陸作戦が成功したのは、同時期にスターリンの率いるソ連軍が東部戦線でバクラチオン作戦という大攻勢を起こしていて、ドイツ軍の予備戦力が不足していたからであり、米英を中心とする西側連合軍だけでは失敗していた可能性がある。ロシアが招待されなかったことに対して、ロシア政府はこの事実を発表を伝えて不満を唱えていた。

そこで、僕は今日のブログでは4年前にこのブログを書き始めた頃に書いた、ドイツ北部にあるムンスター戦車博物館を訪問した時のブログを再アップしようと思う。4年前はまだこのブログの読者が10人以下だったので、ほとんど読んだ人がいなかったから。上の写真はケーニクスティガー戦車と並んで、ムンスター戦車博物館で人気があるドイツ軍戦車のパンター戦車。

 

一人旅で行ったドイツのムンスター戦車博物館はとても辺鄙な場所にあった。

 

1997年9月に、ドイツ北部にあるムンスター戦車博物館を初めて訪問した。当然、ナチスドイツ関連の場所を巡るツアーとかはないので、まだインターネットが普及していない時代だったけど、自分で軍事雑誌などを見て場所を確認して一人旅で行くことにした。ムンスター戦車博物館を訪れる際によく間違えやすいのは、同じドイツ北部にあるミュンスターという町と間違えてしまうことだ。ムンスターは綴りがMUNSTERであり、ニーダーザクセン州にあるが、ミュンスターは綴りがMUENTER(UEはウムラウト)であり、ノルトライン・ヴェストファーレン州にある。幸い、僕は地理に強くて方向感覚が良いので間違うことはなかった。

ムンスター戦車博物館はブレーメンの東、ハンブルクの南、ハノーファーの北にあり、ドイツ鉄道の時刻表で調べたらブレーメンから直通の電車が出ているので、ブレーメン中心部のホテルに泊まることにした。でも、ブレーメン発ムンスター方面行きの電車は8時50分の後は3時間もなかったので、ブレーメンのホテルを朝早くに出発しなければいけなかった。

ムンスター戦車博物館というのはドイツ連邦軍戦車学校の付属施設なので、戦車を使った軍事演習が出来る連邦軍駐屯地の敷地内にあり、それ故、都会からは離れた辺鄙な田舎にあった。ブレーメンからディーゼル気動車2両編成のローカル列車に乗って、1時間半ほどでムンスターについた。駅前には大した商店街もなくて、予想していたよりも田舎町だった。でも、ドイツ語で書かれた「戦車博物館はこちら」という案内板があったので、その案内板を見ながら歩いていくと迷うことなく戦車博物館に着くことが出来た。

 

 

1997年当時は木造でボロかったが、現在は整備されてハイカラな色調の建物。

 


今、ムンスター戦車博物館に行くと入口はハイカラで明るい色調の建物であり、入口のすぐ隣にはカフェとお土産物売り場などがあり、受付では若い女性が入場券を売っている。でも、僕が初めて行った1997年9月は、入口の建物はいかにも軍事施設の一つという感じであり、受付には年寄りのおばあさんが座っていた。それで、そのおばあさんから入場券を買った。

戦車博物館の中もいかにも軍隊の施設の一つという感じであり、すごく大きな車庫の中にたくさんの戦車と装甲車が並んでいるという感じだった。僕がお目当てとしていた第二次世界大戦で使われた戦車は博物館の一番奥にあり、そこまでは第二次世界大戦後に使用された西ドイツ軍のレオパルド、東ドイツ軍のT55戦車などの戦車と装甲車が並んでいたのだが、戦後の兵器にはあまり興味がないのでそこはほとんどスルーした。

 

それで戦後の戦車はほとんどスルーして、第二次世界大戦で使われたドイツ軍と連合軍戦車が展示してあるホールに着いた。生まれて初めて、第二次世界大戦で本当に使われた戦車を見た感想は本当に感無量だった。ドイツ軍のⅠ号からⅥ号ケーニクスティガー戦車まで、全部の戦車が揃っていた。それ以外にも突撃砲、自走砲などもあった。連合軍側ではアメリカ軍のM4シャーマン、ソ連軍のT34-85型などが展示されていた。戦車を見た感想は、タミヤ模型の35分の1スケールの戦車をそのまま大きくしたという感じがした。やはり、世界のタミヤ模型が、いかに精巧に調査をして模型を作っていたかということがよくわかった。その証拠にムンスター戦車博物館にも、タミヤ模型の戦車模型が展示してあった。

 

 

元ドイツ軍の戦車兵のおじいさんと話して盛り上がる。

 


戦車を一通り見た後に、ドイツ語が少ししゃべれたので出来ればここを訪れているドイツ人の方々と話をしたいと思い、数人に話しかけた。日本人は同盟国の人とドイツ人はよく知っているので、みなさん喜んで話をしてくれた。でも、僕が一番話をしたかったのは、第二次世界大戦中にドイツ兵だったおじいさんと話をすることだった。「ドイツ兵だったおじいさんは、日本人のことをどう思っているのか?」ということに、子供だった頃から興味があった。

それで、博物館の掃除をしていた年輩のおじいさんに話しかけてみると、その方はその博物館の係員だったが第二次世界大戦の時はドイツ軍の戦車兵であり、4号駆逐戦車のドライバーとしてノルマンディ戦線で戦っていたと教えてくれた。おじいさんはRさん(ファーストネームのイニシャル)という人だったが、僕が自己紹介をするとすぐに僕のことをファーストネームで呼んでくれて、肩を組みながら話してきた。

その後、数時間、Rさんは英語がしゃべれなかったので僕はまだたどたどしかったドイツ語で会話をした。

「ノルマンディーでの戦いはどうだったんですか?」

「ワシらがノルマンディーに着くと、もうアメリカ兵だらけだったんだ。それで、制空権を取られていたから、米軍のP51マスタング戦闘機にいつも追いかけられたんだよ。ワシは機甲教導師団に所属していたんだが、最後は米軍の空襲を受けて大勢が戦死したんだ。悲惨だったな」

「P51マスタングは日本にも来たんですよ。B29の護衛機として」

「そうだろうね。アメリカは原爆を2発も日本に落としたから、アメリカ人は残酷だから嫌いだね」

「僕もアメリカ人は嫌いですよ。自分たちが正義だといつも誤解してますからね」

やはり、他のドイツ人も同じなのだが、アメリカ人の悪口を言うとおじいさんは喜んでいた。

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ムンスター戦車博物館で会話をした元ドイツ兵のおじいさんが乗っていたⅣ号駆逐戦車。おじいさんはこの駆逐戦車のドライバーだったが、写真のように車高が低いので中の居住性はかなり悪かったようだ。

元ドイツ兵のおじいさんと打ち解けて戦争の体験を聞く。

 

 

ドイツ人の方々と話をする時の特徴だが、ドイツ人を始めとして欧米人は敬語を使わないので、Rさんはずっと僕のことをファーストネームで呼んで、昔からの友人のように接してくれた。このようにすぐに新しく会った人と打ち解けられるのが、欧米人との人間関係の特徴である。僕が博物館から帰る時に、ちょうどRさんも車で家に帰るところだったので、車で駅まで送ってくれた。

[Tschuess, Alles Gute!](じゃあな、達者でな!)とRさんはニッコリと言って、僕と駅前で別れた。僕にとってはドイツ軍の戦車を見れたのも嬉しかったが、第二次世界大戦時にドイツ兵だったおじいさんと談笑できたのも、本当に嬉しいことだった。

 

 

戦後80年近くが経ち、戦争に関連した施設に行っても日本が大好きな元ドイツ兵には会えない。

 

 

それで、今、ムンスター戦車博物館、ヒトラーの山荘があったベルヒテスガーデンなどのナチスドイツに関係のある場所に行くと、第二次大戦でドイツ兵だったおじいさんか彼らの家族と話をできるのかというと、かなり難しいだろう。今は既に戦後80年近く経っているので、終戦時に15歳~18歳のヒトラーユーゲントの隊員だったとしても、今年で100歳近くになる。100歳近い高齢の方々が、軍事博物館に来ることはないだろう。でも、第二次大戦に関係のある所でドイツ軍の戦記を読んだりしていると、運が良ければドイツ人の年寄りが話しかけてきて、第二次大戦の話が出来るかもしれない。しかし、当然ながらある程度ドイツ語がしゃべれないと、会話を楽しむことは出来ない。