- 僕はかつて広島市に住んだけど、その前は東京都目黒区に住んでいたので巨人の帽子を被って巨人を応援していた。当時はカープが日本一になった頃だが巨人を応援していた。
- 広島カープが初めて日本一になった1979年9月に父の銀行の接待シートに空きがあったので、家族で広島対阪神戦を市民球場に見に行った。
- 座席は阪神側3塁ベンチの前から3列目くらいだったから、阪神の掛布、真弓などの主力選手が、「巨人の帽子を被って阪神を応援してる変な子供がいる」と気が付いた。
- 掛布がホームランを打った時には、3塁側ベンチ裏で阪神を応援しているのは僕しかいなかったので、巨人の帽子を被ってる僕に手を振ってくれた。
- 試合は最後まで見れなかったが、家でニュースを見たら試合結果は10-10で引き分けだった。
今日のブログ記事では子供の時の面白い思い出を書きます。
僕はかつて広島市に住んだけど、その前は東京都目黒区に住んでいたので巨人の帽子を被って巨人を応援していた。当時はカープが日本一になった頃だが巨人を応援していた。
僕の父が大手銀行勤務で中学校入学までは日本全国各地に住んだことは既に書いたが、かつて広島に住んでいた時に何度か広島市民球場に家族でプロ野球観戦に行ったことがあった。チケットは買ったこともあったが、だいたいは父の勤務する銀行が3塁側ベンチのすぐ裏に接待用の年間シートを持っていたので、そこに空きがある時は課長だった父が「家族で野球観戦していいですか?」と言って、チケットを貰ってきたのだった。
それで、当時は1970年代後半であり、広島カープの赤ヘル軍団が強かった時期であり、山本浩二、衣笠などが大活躍をして、1979年には「江夏の21球」があってカープが初の日本一になった時期だった。それでも、僕は広島の前は東京の目黒区に住んでいたので巨人ファンだった。それは広島に引っ越した後もやはり変わらなかった。東京に住んでいた時は周りにカープファンはいなかったから、「カープは赤いユニフォームで変で、それで生意気だ」とか言ってバカにしていた。それが、父の転勤で急に広島に住むことになったといっても、急に広島ファンになれるわけはなかった。だから、広島に住んでいた2年半の間はずっとプロ野球の話では学校の友達とは話が合わなくて苦労をした。でも、別に広島人が嫌いというわけではなかった。
広島カープが初めて日本一になった1979年9月に父の銀行の接待シートに空きがあったので、家族で広島対阪神戦を市民球場に見に行った。
広島カープが最終的には「江夏の21球」があって初めて日本一になった年の1979年9月初めに、僕は小学校5年生だったが、ある日、父が広島市民球場の3塁側(ビジター側)ベンチ裏座席のチケットを銀行から貰ったので、父以外の僕、母、兄、妹の4人で広島対阪神の試合を見に行った。父はチケットは貰ってきたのだが、課長の時は日曜日に接待ゴルフがあることが多くて出かけてることが多かった。
3塁側、ビジター側ベンチの裏だから阪神ファンの応援が多いと思うだろうけど、広島市民というのは広島市民の90%ほどがカープファンだから、3塁側ベンチの上にもカープの私設応援団が陣取っていてカープの応援の指揮をとっていた。でも、僕は東京にいた時に買った巨人の帽子を被って阪神を応援した。当時はもう広島市民になってから2年ほどが経っていたが、どうしてもカープは応援する気になれなかった。それで、広島と阪神では阪神の方が好きだから阪神を応援した。
座席は阪神側3塁ベンチの前から3列目くらいだったから、阪神の掛布、真弓などの主力選手が、「巨人の帽子を被って阪神を応援してる変な子供がいる」と気が付いた。
それで、阪神の選手が出てきて練習を始めると、僕が座っていたのは3塁側ベンチ裏で前から3列目くらいの座席だったから、阪神の選手の中には僕に気づく人がいた。やはり、広島市民球場で巨人の帽子を被って阪神の選手に拍手を送ってる子供がいると、阪神の選手も気づくだろう。3塁側というとサードの掛布とショートの真弓がすぐに近くに見えたから、主力選手である掛布、真弓などが守備練習が終わると僕を見つけて、「あそこに巨人の帽子を被って阪神を応援している変な子供がいる」という感じで、笑っていた。それは、阪神の選手からすると巨人は永遠の伝統的なライバルだから、巨人の帽子を被った子供が阪神を応援するという事情が理解できなかったのだろう。少なくとも甲子園球場と後楽園球場では、そんな人は絶対にいない。阪神の控えの選手の誰かがベンチを出てきて、僕を見つけて笑ったりもしていた。確か、控えの選手は川藤だったかもしれない。(笑)
掛布がホームランを打った時には、3塁側ベンチ裏で阪神を応援しているのは僕しかいなかったので、巨人の帽子を被ってる僕に手を振ってくれた。
先にも書いたように広島市民球場では3塁側でも広島カープの私設応援団がいたから、サード掛布、ショート真弓などはカープ私設応援団から野次られていたが、守備が終わってベンチに引き上げる時には、巨人の帽子を被って阪神を応援している僕に向かって手を振ってくれることもあった。掛布がホームランを打ってベンチ前で他の選手が出迎えて祝った時も、3塁側とはいえ阪神を応援しているのは僕くらいしか見つからなかったから、僕に手を振ってくれた。当然ながら周りの広島ファンは嫌な顔をしていたが、子供の野球ファンをいじめるとシャレにならないので、カープ私設応援団から何か言われることはなかった。(苦笑)
試合は最後まで見れなかったが、家でニュースを見たら試合結果は10-10で引き分けだった。
その試合の観戦は最後まで見ることができずに、母が「夕飯の買い物をしないといけない」と言ったので、8回表くらいで家族は席を立って球場を離れた。1979年のシーズンは広島と阪神が優勝争いをしていて、時期は9月初旬だったけど、その試合は8回表では阪神がリードしていたが、家に帰って結果を見たら広島が猛反撃をして最後は10-10の引き分けで終わったのだった。
次の日に広島の小学校に行って同級生に「昨日のカープ対タイガースの試合を球場に見に行った」と言ったら、カープファンの友達と担任の中年女性の先生は「終盤に反撃して同点にしたじゃろ?やはり、カープは強いのお」とか言ってたけど、いつものように「そうじゃの、カープは強いのお」などと、適当に話をしたのだった。(苦笑)