1945年5月8日にナチスドイツ軍が正式に降伏文書にサインした建物が、今でも「ロシア・ドイツ博物館」としてベルリン東部に建っている。
2006年7月に、ベルリンのカールスホルストにあるナチスドイツ軍が正式に降伏したことを意味する批准文書に調印をした場所に建つ博物館に行った。ここは今ではドイツ・ロシア博物館となっているが、日本人にとっては太平洋戦争の降伏文書にサインをした戦艦ミズーリ号甲板のような屈辱的な場所であるため、ドイツ人はあまり訪れる人がいないらしい。僕が行った日もすごく暑い日だったが、訪れるドイツ人はあまりいなかった。
ここは元はというとドイツ軍工兵学校の兵舎だったが、ベルリン攻防戦の時にはソ連軍が司令部として使用していた。詳しい説明はウィキペディアに掲載されている。以下、ウィキペディアの説明を引用。
5月8日、ベルリン市内のカールスホルストにおかれた赤軍司令部(ドイツの工兵学校兵舎を利用した)に、カイテル元帥らドイツ代表が到着した。調印式は同日正午すぎに予定されていたが、夜半までずれ込んだ。これは調印文書をロシア語訳するのに時間がかかったという技術的理由があったからという説[3]と、連合軍側証人として参加する予定だったフランスのジャン・ド・ラトル(en:Jean de Lattre de Tassigny)大将が、正式代表として調印に参加する事を要求したためであったという説[4]がある。後者の説では証人の署名欄を代表のすぐ下にして準代表としての形を整える事でド・ラトルも承諾したとされる。
停戦時刻を過ぎた午後11時から、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥、そしてドイツ国防軍のヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印した。連合軍側証人としてはド・ラトル将軍のほか、アメリカのカール・スパーツ准将が副署している。調印時刻はベルリン時間5月9日午前0時15分、西ヨーロッパ夏時間では5月8日午後11時15分、モスクワ夏時間では5月9日午前2時15分であった[5]。この為ロシアをはじめカザフスタン、ベラルーシなど多くの旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。(詳細は戦勝記念日 (5月9日)を参照)。
ただしヨーロッパで完全に戦闘が終結したのは、プラハの戦いが終結した5月11日の事だった。
ドイツ軍が降伏をした時には、勝者の連合軍には豪華なテーブルと椅子が用意されて、敗者のドイツ軍には粗末なテーブルと椅子が用意された。
上の写真がナチスドイツ軍が無条件降伏を表す批准文書に調印をした部屋であり、当時の様子がそのまま保存されている。中央の2つの豪華なテーブルと椅子に連合軍高級将校が座り、右端のみすぼらしいテーブルと3つの椅子にドイツ軍の代表が座った。ドイツ軍代表は陸軍のカイテル元帥、空軍のシュトゥムプフ上級大将、海軍のフォン・フリーデブルク大将が出席して文書にサインした。ドイツ側が座ったテーブルがすごくみすぼらしい物だとわかると思う。写真の写りが悪いのは、博物館の受付でおばさんに荷物を渡した時に、「フラッシュ撮影はダメです」と言われたから。(苦笑)
第二次大戦のソ連軍最高の英雄であるジューコフ元帥の執務室と軍服も展示されていた。
この博物館はベルリンが壁で東西に分割されていた時には共産主義の東ドイツ側に建っているため、旧ソ連軍の勝利の栄光を表す多くの物が展示されている。下にアップした写真は第二次世界大戦(ロシアでは大祖国戦争と呼ぶ)で最も活躍したゲオルギー・ジューコフ元帥が使用していた執務室と軍服。ジューコフは中将時代の1939年夏には日本軍ともノモンハン事変で戦っており、ソ連軍もかなりの損害を出したが、最後には圧倒的な戦車部隊の大攻勢で、日本軍に壊滅的な打撃を与えている。この時の戦いを参考にして、ジューコフは独ソ戦を戦ったと言われている。
日本が戦艦「ミズーリ」艦上で降伏寸書に調印した時の写真も展示されていた。「北方領土はロシアのもの」とアピールする狙いがあるようだ。
さらにちょっと驚いたのは、1945年9月2日にアメリカ軍戦艦「ミズーリ」艦上で行われた大日本帝国の降伏文書調印式の写真も展示されていたこと。ソ連軍は日本軍とは1945年8月8日から15日までの約一週間しか戦ってないが、「日本軍に対しても戦勝国なのだ。よって北方領土は旧ソ連が合法的に獲得したのだ」ということをアピールする狙いがあるのだろう。
このように、「ドイツ・ロシア博物館」にはベルリンのカールスホルストにある博物館ではあるが、旧ソ連の栄光ばかりが展示されている博物館だった。絶対にドイツ人、特にベルtリン市民はロシア政府の合意があれば、こんな博物館はすぐに撤去してほしいと思っているだろう。日本に例えるなら、アメリカ海軍の戦艦「ミズーリ」が東京湾に展示されているようなものだから。(苦笑)