ヒトラー総統に隠し子がいたというのは驚くべきことですが、このことはナチス幹部をよく知っているドイツ人のおばあさんから聞いた事実であり、それを説明しているネットのサイトも幾つかあります。
これから、書くことは僕が実際に体験した紛れもない事実です。でも、ナチスドイツにすごく詳しい人たちはすでに知っているかもしれません。
「UFOを見た」
「雪男を見た」
というような戯言に近い信じがたいことではありますが、自分が本当に2005年の7月に、ドイツのベルヒテスガーデン(ヒトラーの山荘があった所)で体験したことです。亡くなった父の墓に誓って真実です。(僕はクリスチャンではないですが、キリスト教徒はよくこのように誓います)
上の写真は日独伊三国軍事同盟が結ばれた頃に、駐ドイツ大使の大島浩と握手をするヒトラー総統。
2005年6月末から約1週間ベルヒテスガーデンに滞在した。行く前にネットでペンションを予約したのだが、その中に、[Hotel zum Tuerken](ホテル・ツム・トゥルケン)というものがあり、このホテルが僕の興味をものすごくひいた。なぜなら、多くのベルヒテスガーデンにあるペンションの中で、唯一、日本語の説明があったからである。
そこは値段が高かったので、1晩だけ予約すると同時にオーナーに、
「どうして、サイトに日本語の説明があるのですか?」
という質問を、ドイツ語で書いてEメールを送ってみた。サイトには、今のオーナーの写真があり、名前も書いてあった。S夫人(もう15年前のことだから、高齢のおばあさんだったから恐らくお亡くなりだろうけど、当然ながら名前は出せない)というおばあさんだった。
オーナーからの返事はこうだった。
「Gさん(僕の家族名のイニシャル)、当ホテルに宿泊してくれてありがとうございます。私には日本人の友達がたくさんいて、その中にはあなたと同じ家族名の日本人もいます。ですから、当ホテルの歴史のサイトを日本語に翻訳させました」
僕と同じ家族名の日本人でドイツ軍の歴史に詳しい方を、僕は1人知っていた。その方は、ヒトラー、ナチス・ドイツの研究でとても有名な方で本も執筆されている方だった。当時はまだお会いしたことはないが、ネット上で何度も会話をしたことはあった。
ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘があった場所の近くに建つホテルに行くと、そこの女主人のおばあさんが「ヒトラーには隠し子がいたのです」と教えてくれた。
時は流れていよいよベルヒテスガーデンに行く日となり、ヒトラーの山荘があった鷲の巣を見た後にホテル・ツム・トゥルケンの扉の前に立った。その日はツトゥルケンではなく他の安いペンションに泊まっていたが、どうしてもS夫人と会話をしたかったのだった。
ドアのベルを鳴らして、
「あの、日本人のヘル(英語のミスターの意味)Gです。あなたにメールを書きました。どうしてもお話がしたいのですが」
と言うと、白髪のドイツ人で小柄なおばあさんが中から出てきた。この人がS夫人だった。
僕「あの、僕以外にも“G”という家族名の日本人を知っているそうですが、その方のフルネームは何と言うのですか?」
S夫人「彼は、S・G(名前と家族名のイニシャル)といいます」
「えっ、S・Gさんですか!?僕はその人を知っています!ただ、まだ会ったことはなくてネット上で会話をしただけですが。S・Gさんはナチス・ドイツ研究でとても有名な方で、第二次大戦中に駐ドイツ大使を務めていた大島陸軍中将、アルベルト・シュペアーなどとも知り合いだったそうです」
「ええ、そうですね。彼はナチス・ドイツの関係者を多く知っています。彼はまだそんなに年寄りではありません。50才を少し過ぎたぐらいです。彼は、ヒトラーの息子を日本に呼ぼうとしていたのです」
ここまで話を聞いて、当然、僕はものすごい衝撃を受けた。突然、3次元から2次元のSFの世界にワープしたみたいな。
「あの、ヒトラー総統に息子がいたのですか?それは、エファ・ブラウンかゲリ・ラウバルとの間に生まれた息子ですか?資料、本などに記録されている事実ではないですよね?本当のことですか?」
S夫人はニヤリと笑って、こう答えた。
「第一次大戦が終わった頃に、ヒトラーには既に息子がいたのです。もちろん、ずっと秘密にされていて、ヒトラーと本当に親しい側近、友人しか知らない事実です」
この答を聞いた時、しばらく、僕はポカンとしてS夫人の顔を眺めていた。S夫人は、
「やっぱり驚いた」
というような感じで、ニヤリと笑って僕の顔を見ていた。
その後、S夫人は、
「宿泊する日は、午前10時までにフロントに来て下さい」
と僕に言ってから、ドアを閉めて中に戻った。
僕はこの話を聞いた後、次のように思った。
「とんでもない秘密を知ってしまった。ヒトラーの隠し子なんて本当なんだろうか?他の人に言っても誰も信じないだろうな。ひょっとしたら、S夫人は高齢なのでもうろくして、虚言を言っているのではないだろうか?でも、話をした限りではウチのおばあさん(当時、既に90才近くで重い認知症だった)なんかよりもしっかりしているし、ホテルのオーナーの仕事をしているのだから、虚言、妄言を言っているとも思えない。いずれにしても、ヒトラー、ナチス・ドイツについて、かなり重い事実を知ってしまった。
しかし、そのヒトラーの息子というのは、まだ、生きているのだろうか?生きているとしても、第一次大戦直後に生まれたのなら、既に、80才を越えていることになる。ということは仮に生きているとしても、そんなに活発な活動は出来ないということか」
それから、数日後に、ホテル・ツム・トゥルケンに宿泊する日になった。S夫人とも再びナチス・ドイツについて話をしたが、夫人は、ヒトラーを始めとして、ゲッベルス、ゲーリングなどのナチスの大物政治家、軍人に言及する時も、まるで、自分の友達について語るような言い回しだった。当然、若い頃にベルヒテスガーデンでナチスの大物政治家、軍人などとも会って話をしたこともあると思うので、そのように気軽に語ることが出来たのだろう。
僕としてはとても嬉しかったのは、チェックインした後にS夫人がホテルの従業員の方々に、
[Herr G(僕のこと) ist ein toller Deutsch-Sprecher. Sie koennen mit ihm ohne Problem auf Deutsch sprechen.]
「Gさんは本当にドイツ語が上手なので、あなた方は彼と何の問題もなくドイツ語で会話できますよ」
と言ったことだった。
おばあさんがオーナーを務めていたホテル・ツム・トゥルケンは、ナチスドイツ時代はヒトラーの山荘であるベルグホーフを警備する親衛隊兵士の詰所として使われていた。
写真上は2005年のホテル・ツム・トゥルケン。写真を見ればわかるようにやはりS夫人には日本人の知り合いが多いらしいので、ホテルの前にはドイツ、アメリカなどと一緒に日本の旗が飾ってある。写真下はナチスドイツ時代のヒトラーの山荘のベルグホーフ。ヒトラー・ユーゲントとBDM(ドイツ少女連盟)が、ヒトラー総統に謁見するためにベルグホーフを集団で訪れている。ベルグホーフはベルヒテスガーデンのメインの建物でヒトラーの別荘であり、ナチス時代にはホテル・ツム・トゥルケンはベルグホーフを警備するナチス親衛隊の詰所になっており、この写真の手前に建っていた。そして、その下には迷路のように入り組んだ地下通路が作られており、ベルグホーフを守る要塞の役割を果たしていた。
ホテル・ツム・トゥルケンの日本語の説明文をちょっと抜粋して掲載します。
それはさておき、オーバーザルツベルクのツルケンに話を戻しましょう。
長い間計画されていたように、ゲストハウス・トゥルケンはアドルフ・ヒトラーの保安用兵舎として設備されていました。その備品とハウスヴアッヒエンフエルトの真上の目立たない場所は、そのための理想的な必要条件を満たしていました。ハウスヴアッヒエンフエルトは、貧弱なスケールと少ない客室の故に安全保障のための兵駐屯が許されませんでした。トゥルケンにはその頃、バイエルンとベルヒテスガーデン生まれの者が優先的に採用され、ヒトラーの執務室と寝室の警備員として配置されました。それに加えて、待機する歩哨とライヒス保安部隊によるヒトラーの個人的保安司令部にも配置されました。
アドルフ・ヒトラーの個人的保安のための責任者は、後に親衛隊旅団長でライヒス保安長官になったラッテンフーバーでした。第三帝国のすべての重要人物の個人的保安は、信用して彼に任されました。当時のアドルフ・ヒトラーの警備はライヒス保安本部の総統親衛隊司令部によって実行されました。それはライヒス保安本部、制服あるいは平服の混合した刑事警察、アドルフ・ヒトラー親衛隊ボデイーガード部隊の兵士などから成り立っていました。
ホテル・ツム・トゥルケンの日本語の説明文を読みたい方は、”Hotel zum Tuerken Obersalzberg”と入力して、グーグルで検索してみてください。[Oberfsalzberg](オーバーザルツベルク)はホテル・ツム トゥルケンのある場所。右下にある日の丸が描かれたボタンをクリックすると、日本語説明文をダウンロードできます。
ヒトラーの隠し子は既に亡くなったけど、彼の孫がまだフランスで存命であることを説明する記事がネット上には幾つかある。当然、英語とドイツ語のサイトの方が説明が充実している。
そして、下のリンク先が英語版しかないけど、ヒトラーの息子の息子(つまり孫)を自称している方にイギリスの新聞が取材した時の記事。彼の名はフィリップ・ロレというが、彼の父のジャン・マリー・ロレが生きていた時に、「俺の母のシャルロッテが亡くなる時に、『私は第一次世界大戦の時にドイツ兵だったヒトラーの愛人だった時があり、あなたの父はヒトラーなの』と言い残した」と言っていたという。
ジャン・マリーがこれを母から聞いた時は既に戦後だったが、ジャン・マリーはナチスを嫌っていて第二次世界大戦中はレジスタンス活動をしており、幸いにもネオナチなどの右翼が大嫌いだったので、戦後もネオナチ運動などには無関心だったという。でも、もし、ジャン・マリーがナチス思想に共鳴していて、武装SSフランス人部隊の「シャルルマーニュ」師団などに参加していたら、戦後のヨーロッパではかなり面倒なことになったかもしれない。このヒトラーに隠し子がいたということは、第二次大戦の勝敗をひっくり返したかもしれない、大変な事実かもしれない。
GSさんは戦後のナチス生き残りの方々と親交があったので、恐らく、その方々を通じてジャン・マリー・ロレさんを日本に招待しようとしたのだと思う。
補足します。こちらの日本語のサイトに、ヒトラーの隠し子についての詳しい説明があります。
もっと詳しく「ヒトラーの隠し子」について知りたい方は、英語、ドイツ語のサイトをよく探してみてください。いくら第二次大戦時に同盟していたといっても、日本ではあまり重要なことではないので日本語での情報量は限られています。