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ドイツアルプスで会ったイタリア人家族

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ヒトラーの山荘があったベルヒテスガーデンにあるケールシュタインハウスには、2回行ったことがある。当地のナチスドイツ時代の建物はほとんどが破壊されたが、山頂にあるケールシュタインハウスだけが残っており、多くの観光客が訪れる。

 

 

ドイツ・アルプスといっても僕はナチスドイツに興味があるので、当然、具体的に行った場所は、ヒトラー総統の山荘があったベルヒテスガーデン。ここにはもう2回行ったが、今回書くのは、2005年の7月に行った時の出来事。写真上はベルヒテスガーデンにあるヒトラー総統のティーハウスであるイーグルズ・ネスト(鷲の巣)。しかし、イーグルズ・ネストは戦後にアメリカ軍がここを占領した時に名付けた名前で、ナチスドイツ時代にはケールシュタインハウスと呼ばれていた。写真上がケールシュタインハウス。ベルヒテスガーデンのナチスドイツ時代の建物はネオナチの聖地にならないように、ほとんどの建物が破壊されたが、この建物だけは残っている。
 
 
今回書くのはケールシュタインハウスに2005年7月初めに一人旅で行った時のことで、1回目は1997年9月中旬に同じく一人旅でここに来たのだった。まあ、ナチスドイツに関係がある場所に行くというようなマニアックな旅のツアーはないから、やはり一人旅ばかりになる。でも、現地の人たちとドイツ語と英語で会話をするから、そんなに孤独だったことはない。

 

 

ケールシュタインハウスの屋外にあるレストランで昼食を食べていると、イタリア人の家族が相席するのを申し出たので喜んで受け入れた。とてもびっくりしたのは、40代の奥さんは口髭をはやしていたことだった。

 

 

天気が良かった日だったので、ケールシュタインの山荘だった建物の屋外にあるレストランで一人で食事をしていた。すると、40才ぐらいのイタリア人のおじさんが僕の座っていた席の前に座り、英語で、
「こんにちは。私たちはイタリア人家族だが、君は日本人かね?私の家族もここで一緒に食事をしていいかな?」
と英語で言ってきたのだった。
「ええ、もちろん、いいですよ」
と答えると、おじさんは、奥さんと14才ぐらいの娘さんを紹介した。娘さんは、ものすごくかわいい子だった。決してお世辞ではなくて、オードリー・ヘップバーンを金髪にしたような顔立ちだった。
 

だが、僕がびっくりしたのは奥さんの方だった。奥さんの鼻の下には、な、な、なんと、口ヒゲが生えていたのだった!それも、うっすらとではなく、10メートル離れた距離からでもわかるような、はっきりとした濃い口ひげだった!
[For,crying out the Lord, she,s gotta mustache!!]
「おお、神よ、何ということだ!このおばさん、口ひげを生やしている!」
と、思わず英語で思ったのだった。ちょっと注釈すると、海外で数週間暮らしていて、日本人どころかアジア人にもほとんど会わないと、何か考える時も、英語かドイツ語で考えるようになることがある。自慢話みたいだけど。
 
僕はおばさんが口髭をはやしていることに言及しようかどうか迷ったのだが、怒られる可能性があると考えて何も言わなかった。おばさんの方は口髭など全く気にせず、ニコニコ笑ってイタリア語で旦那さんに
「でも、私と娘はイタリア語しかしゃべれないから、この日本人に迷惑になるんじゃないかしら」
みたいなことを言っていた。写真下がベルヒテスガーデンで会話をしたイタリア人家族。この写真ではよくわからないけど、奥さんの口元にははっきりと口ひげがはえていた。それで、日本に帰ってから会社の同僚女性にこの話をしたら、「ヨーロッパ人のおばさんの中には髭がはえてもそらない人がいるの?実はいうと女性も髭がはえるから、1週間に1度はそっている」ということを教えてくれたので、またびっくりした。

 

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旦那さんは英語がしゃべれたので僕とサッカー、映画、第二次大戦などの話をした。その一方で奥さんと娘さんは話を聞いてるだけだったが、別に退屈していたようではなかった。



それで、イタリア人家族と話は内容は、サッカーとイタリア映画の話がメインだった。それから、僕は自己紹介の時に、
「大学で現代史を専門に勉強して、特に第二次大戦の研究をしたから、ここに来たんです」
と言ったので、第二次大戦の話も少しした。
 
その家族は、ボローニャから来ていたので、ボローニャというと、一度、中田英寿が短期間だがここのサッカーチームでプレーしていたこともあり、サッカーの話もした。イタリア代表チームについても話をしたが、2005年頃というとイタリア代表は、2002年日韓ワールドカップ、2004年のユーロでもロクな成績を残していなかったので、おじさんは、
「ヤツラはお金を貰い過ぎだ」
と言って、怒っていた、
 
 
映画についての話は、当然、イタリア映画がメインだった。おじさんの名前がヴィットリオさんだったので、こういう会話をした。
僕「ヴィットリオ・デ・シーカという映画監督がいましたね。『ひまわり』、『昨日、今日、明日』『自転車泥棒』などを見たことがありますよ。よくソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが、デ・シーカの作品では競演していたので、学生の頃は、てっきり、2人は本当の夫婦なんだろうと誤解してました」
おじさん「デ・シーカは監督業が有名だったけど、俳優もしていたのを知っているか?」
僕「ええ、知ってますよ。何本かの映画に俳優としても出演していますね。僕は最近のハリウッド映画なんかよりも、一昔前のイタリア映画の方が大好きです。“イタリアン・ネオリアリズム”の頃の映画は、今のハリウッド映画なんかよりも素晴らしい作品があります。『鉄道員』、『道』、『ニューシネマ・パラダイス』なんかは何回見ても感動しますね。感動して涙を流すこともあります」
 
ちょっと補足だが、当然、こういった映画のイタリア語のオリジナルタイトルは、わかっていても発音が難しいので、ピエトロ・ジェルミ、フェデリコ・フェリーニ、ジュゼッペ・トルナトーレなどの名前を出すことでわかってもらったのだった。(苦笑)おじさんは僕のイタリア映画の知識にちょっと驚いたようで、
[Don de Cinema]「映画のドンだね」
とほめてくれた。
 
 
さらに、僕が机の上に積んでいた、日本語で書かれた第二次大戦の本をおじさんは手に取り、
「これが、君が学校で使った教科書かね」
と聞いた。本当は教科書ではなく、イラストが豊富な学研の戦記本だったのだが、説明するのが面倒なので、
「ええ、そうです」
と答えた。おじさんはその本をしばらく見た後、
「言葉はわからないけど、第二次大戦のことがイラストと写真を使って上手く説明しているね。いい教科書だよ」
と、ニコリと笑って言った。
 
 
このように、おじさんと僕が英語で話をしていた間、奥さんと娘さんは何をしていたのかというと、2人ともニコニコ笑って横で見ていただけという感じだった。奥さんの方は相槌をうったり、
「今、彼は何て言ったの?」
と旦那に聞いたりしていたが、可愛らしい娘さんの方は、ただ、ニコニコ微笑んでいただけだった。でも、そんなに退屈しているふうには見えなかった。
 
「個人差もあるだろうけど、イタリアとかのラテン系の娘さんというのは、ああいう娘が多いのかな?男が話している横で、ただ、ニコニコと微笑んでいるといいうような。これまでも、イタリア人の若い女性にドイツ、オーストリアで会ったことがあるけど、いきなり、イタリア語で話しかけてきたりとか、人懐っこくて、優しい感じの娘さんが多かったな」
と思ったのだった。
 
だから、僕はほとんどヴィットリオさんだけと話をして、奥さんと娘さんとはほとんど話をせずに別れたのだった。それでも、先に書いたように、奥さんも娘さんも決して退屈だったのではないようだ。