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初めてサッカーの試合を見た時の思い出

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今日は小学校6年生で西宮に住んでいた時に、生まれて初めてサッカーの試合を見た時の思い出について書こうと思います。上の写真は今のセレッソ大阪の長居スタジアム。僕はここで1980年秋に生まれて初めてサッカーの試合を見ました。もちろん、1980年当時はまだチーム名が「ヤンマー」であり、釜本が現役選手でプレイをしていて、スタジアムもこんなに立派ではありませんでしたが。

 

 

小学校6年生の秋の土曜日に家にいると銀行から帰ってきた父が、「明日は長居競技場にヤンマーのサッカーの試合を見に行こう」と言った。当時はまだJリーグがなかったのでサッカーは人気がなかったが、なぜか父はサッカーの試合を見に行かないといけないと言った。

 

 

小学校6年生の時は父が銀行の大阪支店勤務だったので、阪急電車の西宮北口駅の近くにあった銀行の社宅アパートに住んでいた。ここからだと、父の職場まで1時間以内で行けるから西宮に社宅アパートはあった。

 

それで、土曜日に自分の部屋でくつろいでると、午後に銀行から帰ってきた父が、

「おい、明日はサッカーの試合を見に長居競技場に行こう。明日、ヤンマーと外国のチームのサッカー交流試合のチケットをお得意さんからもらったから、サッカーの試合を見に行こう。お前の友達のF君(同じ社宅アパートに住む友達)も連れて行って3人で行こう」

と言ったのだった。

「サッカーの試合?野球の試合じゃないのか?サッカーはあまりやったことがないし、ルールもよく知らないよ。西宮球場か甲子園球場(西宮に住んでいたので、阪急の本拠地の西宮球場と阪神の本拠地の甲子園球場はすごく近かった)にプロ野球の試合を見に行くんじゃないのか?」

と父にきいた。

「違う、違う。明日は長居にヤンマーのサッカーの試合を見に行くんだ。お父さんはヤンマーの社員から明日の試合のチケットをもらったから、サッカーの試合を見に行くんだ」

というふうに、父は「サッカーの試合を見に行く」ということを命令口調で言った。ちょっと不思議に思ったが、とりあえず、同じ社宅に住むF君にもこのことを伝えて、一緒にサッカーの試合を見に行くことにした。

 

 

長居競技場に着いてみると親子連れの客で満員であり、けっこうサッカーも人気があった。釜本が率いるヤンマーの対戦相手は、ミドルセックスワンダラーズというイギリスのアマチュア選抜チームだった。

 

 

阪急の西宮北口駅からヤンマーの長居競技場までは、阪急電鉄で梅田まで行って、梅田で地下鉄御堂筋線に乗り換えるだけで行けた。1時間以内というけっこう短い時間で着いた。それで、長居競技場に着くとけっこうサッカーも人気があって、長居競技場はほぼ満員の客で埋まっていた。

「あれ、ヤンマーの社員さんは『競技場を満員にしたいので、なるべくたくさんの人を連れてきてください』なんて言っていたけど、けっこうサッカーも人気があって満員じゃないか。こんなにサッカーも人気があるなんて思わなかったな」

と父は言って、苦笑いをしていた。確かに、競技場はサッカー好きの親子で一杯であり、僕もこんなにサッカー好きの人がいることに驚いた。やはり、大都市の大阪圏だったからだろう。

 

それで、ヤンマーの対戦相手はイングランドのアマチュアチームのミドルセックスワンダラーズというチームだった。今調べてみると、このチームは全英(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)のアマチュア選手の選抜チームだった。当時のサッカー日本代表はサッカーのワールドカップとオリンピックの両方を目指していたので、オリンピックのアマチュア憲章でプロのクラブチームとは試合ができないから、ヨーロッパのアマチュアチームだけと親善試合をしていたのだった。これは、日本代表だけではなくてクラブチームにも適用されていた。しかし、イギリスのアマチュア選手といっても、中には将来はイングランドのプロクラブを目指す若い選手もいたから、相手はけっこう強かったはずである。当然ながら、ヤンマーの主力である釜本選手も出場していた。

 

 

試合が始まる前にセレモニーがあり、ヤンマーの選手たちが観客の子供たちに小さいサッカーボールを投げてプレゼントした。なぜか1人のヤンマーの選手が僕に近づいてきて手渡しでボールをくれたが、その人は父が取引をしている人だった。

 

 

いよいよ試合が始まる前にちょっとしたセレモニーがあって、競技場の観客席に向かってヤンマーの選手たちが走ってきて、観客席にいる子供たちに小さなサッカーボールを投げて渡したのだった。「俺はサッカーにあまり興味がないしもう小学校6年生だから、他のサッカー好きの小さな子供がもらえばええやろ」と僕は思っていた。ところが、1人のヤンマーのサッカー選手が僕と父とF君が並んでる所へと真っすぐに走ってきて、それで、他の子供たちが「ください、ボールをください!!」と必死に叫んで手を伸ばすのを「だめ、だめ!」と言って全部遮って、僕を指さして僕を呼んで「このボール、あげるから」とほほ笑んで言って、手渡しで小さなサッカーボールをくれたのだった。後ろで父が、「どうもすみません。ありがとうございます」とビジネススマイルを浮かべて、その選手にお礼を言っていた。「今、お父さんが取引をしているヤンマーの社員さんなんだ」と、父は満足そうに笑って言った。ところが、当然、周りのサッカー好きの子供たちは僕が貰った小さなボールを羨ましそうに見て、「なんや、あいつ、ええとこのボンボンか?お坊ちゃまか?むかつくな」ということを言っていた。それは当たり前のことだった。

 

 

結局、父は大手銀行勤務でヤンマーのサッカー選手とも知り合いということを自慢したかったから、子供をサッカーの試合に連れてきたのだった。昭和時代の親たちは、子供に自分のステイタスを自慢することをよくやっていたと思う。

 

 

結局、父が僕をサッカー観戦に連れてきた意味がこれでよくわかった。「お父さんは大手銀行に勤務していて偉いから、こんなことも出来るんんだぞ。子供たちもお父さんみたいに立派になれよ」ということを、僕に教えたかったのだろう。また、自分がこういうことが出来る地位にいることを周りに見せつけたいという気持ちもあったと思う。父はたまにこういうことをする性格だった。まあ、約10年間で東京名古屋大阪に勤務した大手銀行勤務のエリート転勤族だったから、その気持ちもわからないではなかった。(苦笑)

 

試合の方は、やはり、日本のアマチュアクラブチームとイギリスのアマチュア選抜選手を集めたミドルセックスワンダラーズとでは良い試合にはならず、前半からミドルセックスが猛攻をかけて結果は5-0でミドルセックスの一方的な勝利だった。だから、試合自体はそんなに面白くなかった。既にピークを越えていたヤンマーのエースの釜本のゴールも見れなかった。

 

このサッカーの試合を見た後に、しばらくは社宅の庭でサッカーをプレイして遊んでみたりした。でも、同級生の友達の中にもけっこうドリブルの上手い選手がいて、そういう友達がボールを持ってドリブルをすると、サッカーの経験があまりない僕には止めることができなかった。それに、まだJリーグが始まる前でサッカーのルールをよく知らなかったから、しばらくサッカーをプレイしたら、また以前のように野球をするようになった。ヤンマーの選手からもらったボールは、確か、西宮から仙台に引っ越す時に捨ててしまったと思う。

 

その後、Jリーグが始まってセレッソ大阪がJ1でプレイするようになった時に、僕にサッカーボールをくれたヤンマーの選手について父に質問したら、「あの人は今はセレッソのフロントの仕事をしてる」と教えてくれた。

 

その後、Jリーグが1993年5月からスタートして、ヤンマーはセレッソ大阪というプロクラブになった。それで、セレッソがJ1に昇格した後に父に、

「親父とヤンマーの試合を見に行った時にサッカーボールをくれた選手がいただろ?あの人、今はどうしてるの?やはりサッカー関係の仕事をしてるの?」

と父に質問してみた。父はその人のことを調べてきて数日後に、

「あの人は今は、セレッソ大阪のフロントの仕事をしているそうだ。セレッソはヤンマーを母体としてできたクラブだから、そのままセレッソのフロントに入ったそうだ」

と教えてくれた。

 

 

以上、今日は僕の初めてのサッカー観戦についてブログ記事に書きました。結局、大手銀行に勤務していた父の自慢話になりましたが、父はこの記事に書いたように国立大学法学部を卒業して大手銀行に勤務していることを自慢することがよくありました。まあ、昭和時代のサラリーマンはけっこうそういう人が多かったかもしれません。(苦笑)