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広島の小学校から引っ越すことになった時のこと

 

 

 

 

ウクライナでの戦争もロシア軍の攻勢が失敗していて泥沼状態が続いおり、戦争の終わりが見えない状態なので、今日は小学生の時の思い出について書こうと思います。僕が小学校5年生の1月に大手銀行員だった父の転勤が決まって、2年7か月住んだ広島から大阪へ引っ越すことになった時のことです。上の写真は広島市内を走る広島電鉄路面電車

 

 

僕の父が勤務していた銀行は1月と6月というふうに学期の途中で転勤があったので、転校する子供にとってはとても辛かった。それで、小学校5年生の1月末に広島から大阪に引っ越すことになった。

 

 

 

父が勤務していた銀行は毎年仕事の閑散期である6月、11月、1月に人事異動があった。だから家族はこの時期になると、「またお父さんが転勤になって、引っ越さないといけないのではないだろうか?2年以上住んでやっと慣れた都市を離れないといけないのだろうか?」と不安になった。それで、僕が小学校5年生だった昭和55年1月初めにこの不安が当たって、父は広島支店から大阪支店への転勤の辞令を持って家に帰ってきた。父は東京から広島に転勤が決まった時のように、「お父さんは大阪支店に転勤になったから、まずは学校に知らせて、それから、荷造りも始めるように」と事務的に言った。父はあまり優しい人ではなかったが、「また、学校が転校になってお前らも大変だろうけどな」ということは言ったと思う。その後、やはり僕と母と兄と妹は何か文句を言ったと思うが、そこを書くと長くなるので割愛する。

 

 

それで、次の日に学校に行って昼休みの時に担任の中年女性の先生に、父の転勤でここの学校に通うのは1月25日までで、その後は西宮市(父の勤務先は大阪支店だが、銀行の社宅アパートは西宮市にあった)の小学校に転校することになったことを告げた。先生は「G君(僕こと)がいなくなると寂しくなるね。それなら、お別れ会の準備をせんとね」とニコリと笑って言った。その後、帰りのホームルームで先生が僕が西宮の小学校に転校することをクラスの生徒に教えると、僕自身が転校することを教えた親しい友達以外は大声をあげてビックリしていた。女子生徒は「かわいそう~」などと言っていた。まあ、これは転校を告げるといつもあることだった。

 

 

学校に転校することを告げると数日後に3年生4年生の時に同じクラスで、僕にちょっとひどいことを言った優等生のA君が、「また引っ越すのか。ひどいことを言って悪かったな。転校生は大変だな」と言いにきた。

 

 

それから、数日後に僕が廊下で同じクラスの友達と遊んでると、小学校3年生4年生の時に同じクラスだったA君が驚いた顔をして近づいてきた。A君は勉強も運動も万能な男子生徒だったが、ちょっと意地悪な性格だった。

A君「G(僕のこと)、お前、また転校するんだってな。東京の小学校から3年生の6月に転校してきたばかりなのに、また引っ越すのか?今度はどこに行くんじゃ?」

僕「大阪だよ。正確に言うと西宮だけど」。

「お前のお父さん、銀行員だから転校が多いんじゃの。お前、そんなに転校ばかりしていて大丈夫か?学校に来るのが嫌にならんか?俺なんか生まれも育ちもここじゃけど、たまに学校に来るのが嫌になるけど」。

「それは、やはり、転校が多いから、広島に転校してきたばかりの時は『東京の学校には友達がたくさんいるから、帰りたいな』と思ったこともあったのう。でも、お父さんの転勤だから、仕方がなかったけん」

「そうじゃの、お前はなかなか広島の小学校に馴染むことができなくて、友達も出来んかったからのう。俺はお前に『お前はまだ東京に帰りたいとか思っとるんか?いつになったら広島に慣れるんじゃ?』などときついことを言ったこともあったのう。なんか、男なのにぐずぐずしているお前を見て情けない奴だなとか思って、ちょっときついことを言ってしまった。すまんかったと思っとるよ」。

「まあ、ちょっとむかついたけど、俺は東京から引っ越してきたから巨人ファンじゃろ?広島に引っ越してきたらみんなカープファンじゃけん、それでビックリして広島人に溶け込むのに時間がかかったというのはあった。転校すると色々と苦労するんじゃ」

「そうじゃの、転校生は大変じゃのう。俺はずっと転校生なのに優等生のお前を見て『すごい奴じゃ』と思っとったよ。もっとお前と仲良くしたらよかったのう。まあ、西宮に行っても頑張れや。俺たちのことを忘れないでと言っても、今度は西宮の小学校で『広島の小学校に帰りたい』などと思っていたら、西宮の小学校に馴染めなくなるな。転校生てほんまに大変じゃのう」

「そうじゃ、転校生はその辺は上手く気持ちを切り替えないといかん。前の小学校の友達を忘れないけど、新しい学校でも友達作らんといけんから、それは確かに難しいんじゃ」

「そうじゃの、ほんまに難しいのう。生まれも育ちも広島の俺にはよくわからん生活やな。西宮の小学校でもお前なら優等生になれるじゃろ。頑張れや」

こういうことを言って、A君は僕を励ますように軽く肩を叩いて去っていった。

 

 

5年生で同級生だった同じく優等生のB君は、「2人とも優等生だから、東京の有名大学でまた会えるじゃろう」と僕に言った。

 

 

もちろん、A君以外にも僕が西宮に引っ越すので悲しんだ友達と同級生はたくさんいたが、同じクラスのB君が僕に言った言葉はけっこうインパクトがあった。彼は僕が小学校に通った最後の日にこう言った。

「G、さよならは言わんよ。俺たちは数年後にまた東京の有名大学で会えるじゃろ。俺は広島学院(広島一の男子校の進学校で、中高一貫教育をしている)から東大を受けるつもりじゃが、お前も東大に入れるじゃろ。それとも、お前はお父さんが東北大学だから、東北大学に入るのか?いずれにせよ、有名大学生同士でまた会えるじゃろ。俺はこんな広島という田舎町で人生を終えるつもりはなくて、必ず、東京の有名大学に入って、その後は大手企業に入って、お前のお父さんみたいに全国で仕事をするのが夢なんじゃ。大学生になったらまた東京で会おうぜ」

彼はこう言って大きく頷いていた。

 

 

転校生というのは新しい学校に慣れないといけないけど、前の学校の友達を忘れるのも難しいことを、このブログで書いたのです。

 

 

僕が小学生の時は優等生だったという自慢話みたいになりましたが、僕がここで書きたかったのは転校生の生活の難しさです。転校生はいつまで経っても前の学校が良かったと思ってると新しい学校に馴染めないし、かといって、前の学校の友達をすぐに忘れてしまうのも冷たすぎると感じるのです。特に僕の家族のように何百キロも離れた都市に引っ越す場合は、引っ越した時点で前の学校の友達とは一生の別れになることが多いので、これは本当に辛かったです。あと、この記事の会話に書いた広島弁はかなりいい加減です。小学校5年生以後は広島弁はしゃべってませんから。(苦笑)