Deutschland-Lab

Deutschland-Lab

歴史や文化、スポーツなどドイツに関する情報まとめサイト

小学校2年生の時に兄と2人で父の実家に旅行した

 

 

 

 

殺伐としたニュースが多いですが、今日はまたのどかなブログ記事で、子供の時の思い出を書こうと思います。

 

 

小学校2年生の時に兄と2人で、東京の上野駅から宮城県北部にある父の実家まで急行電車で5時間かけて行った。妹が旅行嫌いで家族で旅行できなかったのと僕が鉄道マニアだったという理由だった。

 

 

 

僕の父が大手銀行勤務だったので、僕が小学校卒業するまでは家族は日本各地に住んだことは既に何度も書いたけど、小学校2年生の時は父は東京本店の勤務だったので家族は目黒区にある銀行の社宅アパートに住んでいた。それで僕は大の鉄道マニアだったので、小学校2年生の夏休みの時に父の実家がある宮城県北部の瀬峰(現在は栗原市の一部)まで、小学校4年生の兄と2人で旅行することになった。東北本線を上野から盛岡まで走っている急行「いわて」の指定席に座って行くことになった。今のような東北新幹線で行く旅ではないので、片道5時間半ほどかかった。上の写真が455系の急行「いわて」。

 

どういういきさつで小学生2人で長距離急行電車に乗って行くことになったのかはよく覚えてないが、確か銀行の社宅アパートに住んでいた他の友達たちが、「お父さんの実家がある大分県の別府に家族で里帰りする」「お父さんの実家がある三重県名張に家族で里帰りする」などと言っていたので、僕も父の実家に里帰りしたくなったと記憶している。でも、僕の家族は妹が旅行嫌いで「家で楽器を演奏しているか少女漫画を読んでいたい」などと言って反対したので、家族旅行を断念して僕と兄の2人で父の実家に行くことになったのだと思う。それで、母は妹の世話があったので瀬峰には来なかったが、父は数日後に特急「ひばり」と普通列車を乗り継いで瀬峰に来たと記憶してる。僕と兄が急行「いわて」で乗り換えなしに瀬峰まで直行することに決めた理由は、僕が鉄道マニアで電車に乗ることが大好きだったこと、仙台駅で特急「ひばり」から他の電車に乗り換えるのが子供には難しかったことが理由だと思う。

 

 

上野駅から盛岡行きの急行「いわて」に乗ったが、父は一緒に4人掛け座席に座っていたおじさんに冷凍ミカンを渡して、「私の子供たちをお願いします」と頼んだ。

 

 

それで、盛岡行きの急行「いわて」に僕と兄は始発駅の上野駅で乗ったが、父は乗る前に冷凍ミカンを買って子供に持たせて、4人掛けシートに座っていたおじさんにも冷凍ミカンをあげた。「すみません、どちらまで行かれますか?私の子供2人は仙台の先の瀬峰まで行くのですが私は行かないので、道中、子供2人をよろしくお願いします」と言っておじさんに冷凍ミカンをあげた。今は多くの日本人は新幹線か飛行機で旅をするからこういう風景はあまり見ないが、今から40年ほど前の昭和50年代には上野駅新宿駅のような都会のターミナル駅ではよくあった風景だ。

 

4人掛けのシートに一緒に座っていたおじさんはどこまで一緒だったか覚えてないが、確か宇都宮辺りまで一緒だったと思う。国鉄時代の急行電車の指定券というのは前に座っていた人がある駅で降りると、その後の駅で乗って来た客がその空いた席に座れるシステムだったと思う。なぜなら、今でもよく覚えてるのは僕と兄が父の実家がある瀬峰で降りた時は、年輩のおじさんとおばさんが4人掛けの座席に一緒に座っていたから。

 

瀬峰駅 - Wikipedia

 

父の実家がある宮城県北部の瀬峰駅に着くとおじいさんとおばあさんが迎えに来ていたが、父の実家は駅の近くだった。父の実家は戦前までは広大な田畑を所有していた地主であり、おじいさんは戦後は地元の軽便鉄道会社に勤務していた。

 

瀬峰で降りる時は小牛田(瀬峰の前の停車駅で特急電車も止まる駅)を出発してから、2つ目の川を過ぎたら降りる準備をするように」と父から何度も言われていた。それで、2つ目の川を過ぎたら一緒に座っていたおじさんとおばさんから、「2つ目の川を過ぎたから降りる準備をしなさい。さようなら、お元気でね」と言われたのを覚えている。それで、兄と僕の小学生2人で父の実家がある瀬峰まで東京の上野駅から来ることができた。当然、おじいさんとおばあさんは急行「いわて」が瀬峰駅に着く時間を知っていたから駅まで迎えに来てくれた。でも、瀬峰駅から父の実家までは徒歩5分で着くほど近かった。写真上が瀬峰駅前の様子。最近も行ってみたことがあるが、僕が子供だった40年ほど前からほとんど変わってない。

 

 

父の実家には父方のおじいさんとおばあさんとと父の弟(僕にとっては叔父さん)が住んでいた。父は7人兄弟の長男で、実家に住んでいた叔父さんは6人目の子供だった。この叔父さんがおじいさんとおばさんが死ぬまで面倒を見ることに決まっていたので、実家を継ぐことが決まっていた。おじいさんは大日本帝国時代は瀬峰村で巨大な田畑を所有していた地主であり、戦後は農地改革があったので地主は辞めて瀬峰駅から佐沼、築館方面に路線があった「仙北鉄道」という軽便鉄道の重役をしていた。一方で田んぼも所有していたので、田んぼは知り合いの人に耕させていた。父の実家は2階建てだったが、1階の襖を全部外すと20人ほどが寝られるくらい大きかった。金田一耕助探偵が出てくる横溝正史推理小説の舞台になるような、典型的な田舎の地主の家だった。

 

 

父の実家では祖父母と叔父さん(父の弟)と畑仕事をした。困ったのは田舎の家族なので和食ばかり出されたことと、何キロも歩かされたこと。「ハンバーグが食べたい」と言ったら、祖母は作ったことがないので近所の人に作り方を聞いた。

 

 

僕と兄が父の実家にいた時にしたことで覚えてるのは、祖父と祖母と叔父さんと一緒に畑仕事をしたことだった。畑仕事なんてつまらないと思うかもしれないが、東京都目黒区という大都会に住んで、農作業をしたことがなかった僕と兄にとってはけっこう楽しかった。しかし、困ったのは祖父と祖母が用意してくれる朝飯と夕飯であり、東北の田舎の飯だから、もちろん、東京のようなパン、目玉焼きのような洋食は一切なくて、いつもお米、味噌汁、野菜、魚という和食ばかりだった。

 

だから僕と兄は「和食ばかりで飽きたから、東京で母が作ってくれるようなハンバーグが食べたい」と言ったら、祖母はハンバーグを作ったことがないので、近所の若い母親に作り方を聞いてハンバーグを作ってくれた。それから、祖父と祖母と一緒にいた時に僕と兄が困ったのは、4キロくらいの距離は交通機関は使わずに歩かされたことだった。瀬峰は田舎だから交通機関がないから歩くのは仕方がなかったが、祖母と仙台に住む叔母さんの家に移動した後も、仙台にはバスが走ってるのに祖母はバスには乗らずに僕と兄は歩かされた。だから、最寄りのバス停が100メートル以内にあり、交通機関がとても多い東京都目黒区に住んでいた僕と兄にとってはとても疲れることだった。

 

その後、祖母は翌年に隣の家が火事になってる様子を見て驚いて、心臓発作で亡くなった。祖父は1994年に85歳で亡くなったが、晩年はすごいステレオタイプになって年下の子供と孫の話は聞かない頑固な性格になってしまった。だから、実家を継いだ叔父さんの家族は祖父が亡くなって葬式があった時は、「やっと頑固な父の介護が終わった」というようなホッとした顔をしていた。祖母は40年以上前に亡くなったからよく覚えてないが、祖父の晩年は憶えているので、「最後の数年は話が通じなかった」という残念な気持ちがある。