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ドイツではバウムクーヘンは人気のあるお菓子ではない

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バウムクーヘンは日本では最も人気のあるドイツのお菓子であるが、本場のドイツではそんなに人気があるお菓子ではないという。なぜバウムクーヘンが日本でだけとても人気があるのかを説明する。

 

タイトル通りのブログ記事で、日本ではドイツのお菓子というとバウムクーヘンが真っ先に思い浮かぶけど、バウムクーヘンの本場のはずのドイツではこれはそんなに有名で人気のあるお菓子ではなくて、ドイツ大使館に勤務するドイツ人外交官の中にも、日本で初めてバウムクーヘンを食べたという人がいるらしい。それでは、なぜ日本では異常なほどにバウムクーヘンがドイツのお菓子として有名になったのかというと、そこにはカール・ユーハイムと彼の妻の壮絶な人生があったからである。

 

以下、ウィキペディアの説明からの抜粋を含めて説明。

 

カール・ユーハイムは第一次大戦が起こった時、ドイツ第二帝国の租借地であった中国の青島に住んでいた。そこで菓子職人として働いており、結婚したばかりだった。第一次世界大戦の勃発で連合国であるイギリスと同盟していた日本は、中央同盟国の盟主であるドイツ軍の基地のある青島を攻撃して占領した。青島が陥落した時にユーハイムは非戦闘員であったにもかかわらず、捕虜として日本に連れてこられた。

 

(ウィキペディアから引用)

 

1917年2月19日インフルエンザの予防のため[1]、大阪俘虜収容所に収容されていた捕虜は全員、広島県安芸郡仁保島村(現在の広島市南区似島)にある似島検疫所に移送された[13]1919年3月4日、広島県が似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品の展示即売会を開催することになり、ユーハイムはバウムクーヘンなどの菓子を作ることになった。ユーハイムは材料集め(バウムクーヘンを焼くには堅いなどを必要とした)に難航したものの、バウムクーヘンを焼くことに成功[14]、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)にて開催された「ドイツ作品展示会」で製造販売を行う。このバウムクーヘンが、日本で初めて作られたバウムクーヘンとなる[15]。この時ユーハイムは菓子の味を日本人向けにアレンジ(ユーハイムは青島市が日本軍に占領された際の経験から、バターを多く使用した菓子が日本人に受け入れられないことを知っていた)することにも成功し、ユーハイムの作った菓子は好調な売れ行きをみせた[16][17]

 

写真下は当時の広島県物産陳列館で、今の原爆ドーム。

 

 

カール・ユーハイムはバウムクーヘンを作ることで日本で洋菓子職人として成功をして、初めは横浜に喫茶店を出して、関東大震災後は神戸に喫茶店を出した。当時、ドイツ洋菓子を出す喫茶店は珍しかったで、多くの有名人が来店した。

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その後、ユーハイムと妻と子供の人生は順調であったのではなくて、1923年には関東大震災があって、横浜で営んでいたカフェは震災で全焼した。だが、救済基金と知人の助けを借りて神戸に喫茶店[JUCHHEIM'S]を開店した。

 

以下、ウィキペディアの説明から抜粋。

 

開店から1年ほど経つと「JUCHHEIM'S」の菓子を仕入れて販売する店も出てくるようになるなど店の経営は順調で、大丸神戸店が洋菓子を売り出したり近隣の洋菓子店がユーハイムのバウムクーヘンを模倣した商品を売り出すようになってからも人気が衰えることはなかった[30][31]

 

(中略)

 

1937年の日中戦争勃発以後、ユーハイムは戦争への不安から精神病になり、以前のように働くことが出来なくなった。1941年に太平洋戦争が起こると、工場ではドイツ海軍に支給するパンが作られるようになった。ユーハイムは終戦間近の8月14日夕方に亡くなった。

 

1937年夏、エリーゼはユーハイムの振る舞いに尋常でないものを感じ、ユーハイムを精神病院に入院させることにした[† 3]。ユーハイムには病識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、ドイツに帰国させて治療を受けさせることにした[36][37]。数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていた。さらに1941年に開戦した太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなった。1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにした(工場ではドイツ海軍の兵士に支給するパンが焼かれた)[38][39]

 

 

ユーハイムが精神に異常をきたしたのは「盧溝橋事件」があって、日中戦争の勃発が懸念されたニュースに出た頃であり、「また戦争が起こって普通の生活ができなくなる」という心配から精神病になったという。

 

 

1945年6月、空襲により工場は機能しなくなり[† 4]、ユーハイムは家族とともに六甲山にある六甲山ホテルで静養することになった[40]8月14日午後6時、ユーハイムはホテルの部屋で椅子に座り、エリーゼと語り合いながらこの世を去った。医師が書いた死亡診断書によると死因は中風による病死であった[41]。ユーハイムの死に顔は、エリーゼが「死ぬことが少しも恐ろしくなくなった」と思うほど安らかであったという[42]。体格の大きなユーハイムの遺体を納める棺が見つからず、遺体は船の帆布で作った袋に入れられ、荼毘に付された[43][44]

死の直前、ユーハイムは自分は間もなく死ぬが戦争はすぐに終わり平和が来ると語り、さらに1942年にドイツ軍に徴兵された息子カールフランツは死んだと断言した。死の翌日に玉音放送においてポツダム宣言の受諾が表明され、太平洋戦争は終結した。さらに1947年になり、カールフランツが1945年5月6日ウィーンで戦死していたことが判明した[45]

 

 

ユーハイムが亡くなった日付というのが、1945年8月14日午後6時というのがなんとも運命的である。つまり、終戦を告げる玉音放送まであと18時間という時に亡くなったのである。この時は既に日本政府はポツダム宣言を受諾することを決めており、国民にどのようにこれを知らせるかという内閣の会議が行われていたのである。もし、あと18時間生きていたら、ユーハイムは終戦を知ってまた元気が出たかもしれない。

 

下の写真がカール・ユーハイム。家族名はドイツ語では[Juchheim]と綴るので、ドイツ語の綴りに合わせるなら、「ユッフハイム」という発音の方が正しいだろう。

 

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(再びウィキペディアの説明を引用)

 

ユーハイムの未亡人のエリーゼは、連合国が進駐してくると戦争遂行に協力したドイツ人ということで日本から追放された。しかし、1953年に日本が独立すると再び日本に戻ってきて、夫が創業したユーハイム社の経営に参加して、1971年に神戸で亡くなるまでユーハイム社の社長を務めた。

 

ユーハイムの死後、その親族(エリーゼおよびカールフランツの妻子)は連合国軍最高司令官総司令部によってドイツに強制送還された。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務め、かつドイツへ帰国した経験があること、カールフランツがドイツ軍に在籍したことが問題視されたためである[46]1948年10月、かつて「JUCHHEIM'S」に勤務していた山口政栄・川村勇ら3人が同店の復興を目指して任意組合ユーハイム商店(1950年1月、株式会社に改組。1963年から株式会社ユーハイム商号を変更[3])を設立[47]1953年3月にはエリーゼがドイツから戻り、帰国直後から会長に、1961年10月からは社長に就任した[48]。エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し[49]1971年5月2日に兵庫県神戸市で息を引き取った[3]。ユーハイム夫妻の墓は兵庫県芦屋市の芦屋市霊園にある[50]

 

 

日本が第二次世界大戦に負けたことにより、多くの欧米人がやってきて彼らの文化がもたらされたとネトウヨは言うけど、少なくともドイツ人は日本の敗戦によって日本から追放されたという珍しい白人である。ドイツ人であったため、ユーハイムの未亡人のエリーゼは一度日本から追放されたが、1953年に日本が連合国占領から独立すると再来日して夫の事業を引き継いだというのが素晴らしい。そして、エリーゼは1971年に兵庫県神戸市で亡くなった。

 

2010年に放送されたNHKの「歴史ヒストリア」によると、ユーハイムの幹部がバウムクーヘンの値上げを検討すると、未亡人のエリーゼは「あなたはその値段で買いますか?」と日本語で言って、バウムクーヘンの値上げには猛反対をしたという。ユーハイム夫妻の墓前でユーハイムの幹部たちは涙を流して、「奥様の努力がなければ、ユーハイムはここまで大きな会社にはなれませんでした」と回想していた。僕もNHKの歴史ヒストリアを見てとても感動したので、次の日に仙台のデパートに行ってバウムクーヘンを買ったのだった。

 

このようなユーハイム夫妻の努力があったから、バウムクーヘンは日本で最も有名で人気のある洋菓子となったのである。ところが、多くのドイツ人はカール・ユーハイム夫妻の日本での波乱万丈の人生は知らないという。「カール・ユーハイム」のウィキペディアの説明はこちら。日本語版の説明はとても長いがドイツ語と英語の説明はそんなに長くないことから、ユーハイム夫妻は日本でだけとても有名なことがわかると思う。

 

ja.wikipedia.org