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亡くなった父の思い出

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僕の父は東北大学法学部卒で大手銀行勤務だったので、昭和時代の企業の特徴であった「終身雇用・年功序列」」という制度のお陰で、家族は経済的には何の問題もなかった。

 

僕が大のドイツびいきになったのは亡くなった父の影響が大きいので、今日は父について書こうと思う。

 

僕の父は1999年12月末に61才で胃癌で亡くなったけど、東北大学法学部卒業で農林中央金庫に52才まで勤務していて、その後、仙台に本社がある中堅建設会社からヘッドハンティングをされて亡くなるまで勤務していた、父の勤務先を書くのは個人情報の問題があるけど、父はもう亡くなってるので大丈夫だと思う。写真上は父が勤務していた農林中央金庫の本店があるビル。東京の丸の内のお堀に面して建っている。

 

父は農林中央金庫という政府系金融機関に勤務していただけではなくて、東北大学1年生の時にローマオリンピックのボート競技で出場をした。ボートのレガッタのエイトという8人で行う競技のマネージャーだった。父はまだ1年生で第3マネージャーだったのでオリンピックには行ってないけど、日本代表として出場をした部員の方々は、
「エイトの日本代表として五輪に出るのはみんなで掴んだことだから、みんなが五輪出場メンバー。五輪は国が選手の費用を負担するから予算の関係で15人しか出れないけど、みんなが出場選手だ」
と言ってくれて、父も五輪に行ったことになるのだそうだ。父が五輪に出ていたので、小学校低学年の頃は五輪に出るのは簡単なんだと僕は勘違いしていた。

 

その後、父は次の東京五輪に連続出場することを目指してマネージャーとして裏方からボート部を支えて、埼玉県戸田にある合宿所で過ごすことが多かった。大学教授たちも、
「国の代表として五輪に出ることを目指しているから、大学の講義に出れないのは仕方がない」
と言って理解を示してくれたそうだ。

 

だから、父は24才(父は現役と1浪の時は医学部を受験していたので2浪していた)で農林中金に入った時に既に政府系金融機関勤務、オリンピック出場という文武両道だったので出世が約束された人生を歩むことが決まっていた。わかりやすく言うと早稲田大学法学部を受験して合格して、早稲田体育会系の花形と言われてる野球部のマネージャーだったような感じらしい。

 

だけど、父は昭和30年に東北大学に入学をしたけど、都会の名門進学校で受験対策をやって入学をしたのではなかった。土地をたくさん持っていた農家の長男であり、田舎の普通の高校で10年に1人ほどの優秀な生徒で学級委員と生徒会長をしており、高校3年生で先生が「田舎の先生がお前に教えることは何もない」と言うほどに優秀だったらしい。つまり、田舎の秀才だったのでそのまま勢いで東北大学に入学できたそうだ。もちろん、都会では父より優秀な学生はたくさんいたけど。

 

珍しいルートで旧帝大に入って大手銀行で勤務するようになったので、僕が仙台の進学校に入学をして大学受験勉強をしていた時も、
「お父さんは田舎の普通高校卒業だから偏差値教育はよくわからない。偏差値教育というのは偏差値が60だから60以下の大学を受験すれば確実に合格できるという制度で、お父さんのような浪人生を減らすための制度なんだろ?」
という風に偏差値を理解していてあまり受験指導をしなかった。

 

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父は宮城県北部の小さな町の生まれで18歳までそこで生活していたが、子供たちは父の転勤の度に全国各地を引っ越して都会だけで生活をしたので、父と子供たちはかなり違う人間になった。

 

さらに、父が大手銀行勤務だったので3年に1度は転勤があるという生活で僕が小学生を卒業するまでは転校が非常に多くて、中学に入学した時に両親の故郷の仙台に家を建てるまでは、僕は愛媛県の松山に生まれて、名古屋、東京、広島、大阪(正確には西宮)、仙台というふうに引っ越しが多い生活をしていた。一方で、父は大学卒業まで宮城県で生活していたから田舎の自然の中で遊ぶ生活をしていたけど、子供たち(ウチは兄と僕と妹の3人兄妹)は日本各地を引っ越したのであまり友達はできず、父とは反対に家の中で遊ぶことが多い生活をしていたので、父のような文武両道を目指す生活はできなかった。

 

だから、父の遺伝のお蔭で引っ越しが多かったのに成績はよかったものの、中学校を卒業する頃には「とても父を越えられない。父を越えるには東北大学よりも上の大学に行って名門体育系の部活で活躍しないといけない。こんな人間になるのはとても無理だ。だから、むしろ、父のコネを使って人生設計をした方がいい」と思っていた状態だった。つまり、プロ野球の長嶋さんと野村さんの息子のような人生を送るのだろうという状況だった。実際、兄も妹も僕も優秀な父を持っているけど普通の生活を送っている2代目の人生である。写真上は愛媛県松山市の道後温泉。僕はここの近くにある松山赤十字病院で生まれたらしい。

 

それでは父のようなエリートビジネスマンへの憧れはあったのかというと、あまりなかった。僕が高校3年生の時は父は農林中央金庫の次長(支店長の次の役職)で、兄は東京の某国立大学に通っていて、僕も仙台一高という進学校に通っていて、妹は仙台南高校に通っているという、データ的には幸せを絵にかいたような家族だったかもしれないけど、あまり幸せな家族と思ったことはなかった。その原因の一つはやはり父が銀行員で転勤がすごく多かったので子供たちには幼馴染がほとんどおらず、友達が少なかったということがある。幼馴染と言ったら父と同じ銀行に勤務していて、転勤先でよく一緒になった家族くらいだった。

 

だから、僕は東京の某私立大学を卒業した後はあまり転勤がない職業を選んだ。父のような銀行員などの金融関係の仕事はしたくなかった。金融関係は確かに給料はすごくよいけど、転勤がすごく多くて家族にものすごい迷惑をかけるという弱点がある。これは僕の子供時代のトラウマからよく知ってる。

 

幸い、父が農林中金の後に勤務をしていた中堅建設会社の社長さんが「G(ウチの家族名のイニシャル)さんの息子さんだったら優秀に決まっているから、ぜひ、ウチの会社に入ってもらいたい」と言ってもらったので、英検準1級に合格してから同時にスペイン語、ドイツ語の勉強もしながらそこの建設会社に勤務して翻訳業、外国人の接待などの仕事をすることになった。

 

その後はドイツ語勉強のために、1999年3月から3カ月ほどドイツ人家庭にホームステイしながらドイツ語を学んだ。そういう努力もあったので2006年1月にはドイツ語検定準1級に合格して、2006年3月からは東北大学法学部の准教授をしいてるドイツ人弁護士と家族ぐるみの付き合いも出来るようになった。もちろん、彼の講義内容を日本語に翻訳する仕事などもした。

 

だから、色々と書いたけど別に亡くなった父にあまり不満はないし、僕の今の仕事の現状にも満足している。でも、父は典型的な昭和時代のビジネスマンでとても頑固だった性格には不満はあるけれど、それについてはまた他の機会に書こうと思う。

 

 

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父が東北大学でドイツ現代史について勉強をして詳しく知っていたので、僕も父の影響を受けてドイツ軍マニアになった。父は、「日本人は同盟国だったドイツの歴史を知るべきだ」と言っていた。

 

それで、どうして父が僕のドイツびいきに影響を与えたかというと、そもそも父が大のドイツびいきだったから、僕もドイツびいきになったのだった。広島に住んでいた小学校4年生の時に、僕は既に軍事マニアで日本海軍に興味を持っていたのだが、ドイツ軍にも興味を持ち始めた。それで、父に「壮烈!ドイツ機甲軍団!」という本を買ってもらった。そこから、ドイツ軍とドイツに興味を持ち始めた。その後はタミヤ模型のティガーⅠ型戦車の模型も買った。父は大学時代にナチスドイツの歴史を勉強していたから、「大日本帝国はナチスドイツがヨーロッパで勝つと思ったから、米英と戦争を始めたんだ。だから、日本人はナチスドイツの歴史を学ぶべきなんだ」と言って、僕がドイツ軍戦車の模型を買ったり、ドイツ軍の戦記を買うことを応援してくれた。写真上は僕がドイツ軍マニアになる切っ掛けとなった、「葬列!ドイツ機甲軍団」の本。今でも中古本屋などで販売されている。

 

でも、母はその頃にテレビ映画の「ホロコースト」を家族で見た時に、「ナチスドイツはこんなに残酷なことをした」と言って、僕がドイツ軍を好きになることには賛成しなかったが、父は「ナチスドイツがひどいことをしたといっても、日本だって全く同じだろ?というか、第二次世界大戦ではどこの国も残酷なことをしているではないか?日本人は同盟国だったドイツのことを理解するべきだ」と正論を言ってドイツのことを弁護して、僕がドイツ軍マニアになることは問題ないと言った。

 

父は有名な戦争映画の「バルジ大作戦」を見た時も、ラストシーンで燃料切れのドイツ軍機甲部隊の戦車が大量に戦場に置き去りにされたシーンを見て、「ドイツ軍は日本軍とは違って、アメリカ軍よりも優秀な戦車をたくさん持っていたのに、燃料がないと戦車もただの鉄の塊だな。ドイツ兵もかわいそうに」と言って、大いにドイツ兵に同情をしていた。僕はこのようなドイツびいきの父の発言の影響で、自分も大のドイツびいきになったのだった。