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まとめ(12)反ヒトラーグループは本当に英雄なのか?

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映画「ワルキューレ」などで有名になったフォン・シュタウフェンベルク大佐は、本当に反ナチス抵抗運動の英雄なのだろうか?彼はヒトラー政権が誕生した時には反対したおらず、ドイツ軍が負け始めてから反ナチス抵抗運動を始めているので、日和見的と言えるだろう。

 

 

この記事でも過去にはてなブログに書いた記事の中から、興味深い記事を紹介します。このまとめ記事では、トム・クルーズなどが出演していた映画「ワルキューレ」でも有名になった、フォン・シュタウフェンベルク大佐を始めとする反ヒトラーグループのドイツ軍人たちは、本当に賞賛に値する英雄なのかという記事を紹介します。写真上は1944年7月20日に、フォン・シュタウフェンベルク大佐などの反ヒトラー派軍人たちが処刑された場所。場所はベルリン中央部にあり、今ではドイツ国内における反ナチス運動記念館になっている。

 

 

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この記事では、フォン・シュタウフェンベルク大佐は本当に反ナチスの英雄なのか?」ということについて検証している。フォン・シュタウフェンベルク確かに1944年7月20日に東プロイセンのヴォルフスシャンツェにある総統大本営会議室に爆弾を仕掛けてヒトラー総統と彼の側近を殺害しようとしたが、問題なのは時が既に遅すぎたことである。

 

本当に彼がヒトラーとナチス政権が嫌いだったなら、1933年1月にヒトラーがドイツの首相に就任した時にヒトラーの率いる反ナチス政権の意志を表明しなければならなかった。だが、ここが軍人の限界だったのだろうが、ナチス政権が軍部と提携して軍備を増強して、軍の利権を拡大させていた時にはナチス政権には反対せずに、ユダヤ人虐待にも反対しなかった。このナチス政権初期の頃からナチス党のやり方に反対していたのは、ルートヴィッヒ・ベック上級大将くらいである。ベックはこの頃に早くもヒトラーの軍拡案と戦争計画に反対して、参謀総長の職を辞任している。

 

一方でフォン・シュタウフェンベルク大佐は第二次大戦が始まった後もドイツ軍が勝っているうちはヒトラーの戦争計画とやり方には反対せず、1941年冬にドイツ軍が初めてモスクワ前方でソ連軍に敗れて、さらに、その翌年にスターリングラードでも敗れて、ドイツ軍が負け始めてからやっと反ヒトラー派に参加して、反ヒトラーと反ナチスの抵抗運動を始めている。

 

シュタウフェンベルク大佐が参加した時、反ヒトラー派のドイツ人たちはヒトラーを殺害して、ゲッベルスなどのナチス党の主要人物を逮捕して親衛隊は解散させる。西側の米英連合軍とは講和をして、共産主義のソ連軍との戦いだけを続ける」という計画をしていた。しかし、連合軍側は1943年1月のカサブランカ会談で既に「枢軸国側に無条件降伏を求める」という宣言を出していたので、仮に反ヒトラー派の計画が成功しても、連合軍側は反ヒトラー派と交渉するつもりは全くなかったようである。つまり、シュタウフェンベルク大佐は日和見主義の軍人であり、反ヒトラー派の運動に参加するのが遅すぎたようである。

 

シュタウフェンベルク大佐がヒトラー暗殺のために爆弾を爆発させた総統大本営はヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれており、今はポーランド領のケントシンという町にある。僕はこの場所を2007年7月に訪れて、現地にあった多くのブンカーを撮影した。

 

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この記事ではシュタウフェンベルク大佐がヒトラーを暗殺するために、爆弾を爆発させたヴォルフスシャンツェ(狼の巣という意味)に僕が2007年7月に行った時の写真をアップして、ヴォルフスシャンツェの様子を紹介している。ここには第二次大戦中にはヒトラー総統の大本営があった。この場所は第二次大戦当時はドイツ領である東プロイセンのラステンテンブルクという町の近くだったが、今はポーランド領のケントシンという町に名前が変わっている。これは、第二次大戦後に国境の変更があったからである。

 

ポーランドのケントシンという町はすごくアクセスが悪くて、ポーランドの首都ワルシャワから特急列車で6時間ほどかかる。それ以外のアクセスではオルシュチンという町まで飛行機で行って、そこから電車で行くという方法がある。いずれにせよ、日本から直行便があるポーランドの首都ワルシャワからのアクセスはあまりよくない。

 

 

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この記事では、ヒトラー総統の大本営があったヴォルフスシャンツェについてより詳しく説明をしている。ヴォルフスシャンツェにはシュタウフェンベルク大佐が爆弾を爆発させた会議室以外にも非常に多くのブンカーがあり、ヒトラー専用、ゲーリング専用、その他のナチス主要人物専用のブンカーと、ゲスト用のブンカーがあった。ゲスト用のブンカーには駐ドイツ日本大使の大島浩陸軍中将も訪れたことがある。これほど、歴史的に重要な場所でありながら、なぜか、ポーランドの観光ガイドブックには掲載されてないことが多い。行きたい人はウィキペディアなどのネット上の情報で調べるしかない。