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まとめ(17)ポーランドと第二次世界大戦

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8月15日が日本の終戦記念日ということで第二次世界大戦に関するドキュメント、報道番組を日本のテレビではよくやっているので、今日も第二次世界大戦関係のまとめ記事を書こうと思います。僕は2007年7月にポーランドを旅行しましたが、その時の様子を過去にブログ記事に書いたので、それをまとめて紹介しようと思います。上はポーランドの首都ワルシャワにある文化大宮殿で、これは戦後にソ連のスターリンの命令で勝手にワルシャワ中心部に建てられた建物であり、ワルシャワ市民はこの建物をすごく嫌っている。ポーランド共産主義時代の負の遺産として、ワルシャワの中心部に残されている。

 

ポーランドは第二次大戦でナチスドイツによって占領されて、アウシュビッツ収容所などが建てられた悲劇の国であるが、第二次大戦後にソ連共産党によって1991年まで支配されており、ドイツよりも旧ソ連を引き継ぐロシアを嫌っている。

 

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ポーランドの印象としては、ポーランド人は日本人とは全く逆の歴史を歩んでおり、19世紀はロシア、プロシア、オーストリア・ハンガリーという3つの帝国、20世紀はヒトラーのドイツとスターリンのソ連という2つの大国に挟まれて独立と自由が失われたが、国民が団結して戦って独立と自由を勝ち取った国なので、基本的に愛国心がとても強い。ポーランド中心部にある無名兵士の墓では、1時間おきに衛兵の交代が行われており、毎時0分には衛兵の交代式が行われるのでこれを見るためにワルシャワ市民と観光客が集まる。

 

それで、ポーランドというと第二次世界大戦でナチスドイツによってアウシュビッツを始めとする強制収容所が国内に建てられたり、映画「シンドラーのリスト」の舞台となったのもポーランドなので、ポーランド人はドイツを恨んでるというイメージが強いが、ポーランド人はドイツよりも旧ソ連の方を嫌ってるという。僕はポーランド人のメル友だった女性とポーランド西北部のシュチェチンという町で10日間ほど過ごしたことがある。その時に彼女はこう言っていた。

「ドイツ政府はちゃんと謝罪をしたし、ポーランドの経済発展に大きく貢献してくれたけど、旧ソ連を受け継ぐロシア政府は謝罪も賠償も何もしてくれない。ソ連共産主義支配の時代にソ連の言いなりだったポーランド共産党政府は、ポーランドのキリスト教カトリック教会を否定して、ポーランドの伝統的なキリスト教文化はかなり破壊された。でも、ソ連を受け継いだロシアは何も補償をしてくれない」

 

ポーランド人がドイツをあまり嫌っておらず、旧ソ連を受け継ぐロシアの方を嫌ってるということを知って、僕はすごくびっくりしたのだった。

 

 

1939年9月1日にドイツ軍がポーランドを攻撃して第二次世界大戦が始まったが、開戦の地であるグダンスク市を訪れた。この時、イギリスとフランスはポーランドと相互援助条約を結んでいたが、英仏は第一次世界大戦の悲劇を恐れて何の軍事行動も起こさず、ポーランドを見殺しにしてしまった。

 

 

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このブログでは、第二次世界大戦が始まったポーランド北部の街、グダンスクを訪れた時の様子について書いた。第二次世界大戦が始まったというのは日本人にとっては真珠湾攻撃だろうが、既に1939年9月1日にナチスドイツ軍がポーランドを突如攻撃したことから、第二次世界大戦は始まっている。グダンスクでは特にヴェステルプラッテ要塞で激しい攻防戦があり、ドイツ軍が「1日で占領できる」と予想していたヴェステルプラッテ要塞は、ポーランド軍の粘り強い抵抗があってポーランド軍が降伏したのは7日後のことだった。

 

この時に、イギリスとフランス政府は「ポーランドがナチスドイツから攻撃されることがあれば、英仏は軍事行動を起こしてポーランドを助ける」という相互援助条約をポーランド政府と結んでいたが、実際には英仏軍は第一次世界大戦の再現を恐れて躊躇して何の行動も起こさず、ポーランドは見殺しにされた。

 

ポーランド軍が1939年9月に2週間の間、ナチスドイツの攻撃を持ちこていた時に、ナチスドイツに宣戦布告をしていたイギリスとフランスが西からナチスドイツを攻撃していれば、1939年9月にヒトラーのナチスドイツは英仏軍の攻撃の前に降伏したはずだった。西から攻めてくる英仏軍を止める力はナチスドイツ軍にはなかった。そうすれば、第二次世界大戦は「世界大戦」になる前に、「ポーランド紛争」とかいう短期間の地域戦で終わっていたことも、第二次世界大戦に詳しい人なら知ってるだろう。

正しく、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ大統領の対ナチスドイツ「宥和政策」が、ヒトラーのナチスドイツ軍を巨大な化け物にしてしまったのだった。「平和主義だけでは戦争は防げない」という教訓になった。

 

 

ドイツの有名な映画「ブリキの太鼓」に描かれてる、「ポーランド郵便局攻防戦」があった記念館を訪れた。この頃のドイツ軍はまだ戦闘が下手で、郵便局が占領できたのは夕方だった。

 

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このブログ記事では、ドイツの名作映画「ブリキの太鼓」に描かれてる、グダンスクにある「ポーランド郵便局攻防戦」が行われた記念館を訪れた時のことについて書いてる。

 

ここでも、前に書いたヴェステルプラッテ要塞での戦いと同じように、ドイツ軍は簡単に郵便局を数時間で占領できると予想していたが、思った以上に苦戦をして、最後は工兵が壁を爆破して、火炎放射器で地下室を焼き尽くしてようやく午後6時に占領できたのだった。やはり、ポーランド戦当時のドイツ軍は明らかに訓練不足で戦術も粗末であり、戦闘力はそんなに高くはなかったことがよくわかる。

 

ポーランド旅行をしたよくわかったのは、独立と自由は戦わないと得ることが出来ないということだ。今でも日本は北朝鮮を始めとする「仮想敵国」と日本の周辺で対峙してるが、北朝鮮が2002年9月の平壌宣言から10年以上も生き延びてるように、対話だけではこういう軍事国家は崩すことはできず、最終的には戦うことが必要だろう。

 

 

以上、今日は第二次世界大戦でものすごい悲劇の国となったポーランドを訪れた時のことについて、まとめのブログ記事を書いた。先にも書いたように、ポーランドにはナチスドイツによってアウシュビッツを始めとする強制収容所が建てられて、多くのユダヤ人とポーランド人がガス室で処刑された。そして、戦後はソ連軍によって「解放」されてやっと自由になったかと思ったら、今度はソ連共産党によって1991年まで支配されたという、ポーランドは本当に悲劇の国としか言いようがないのである。

 

一方でポーランドはショパン、キューリー夫人などの有名な文化人も輩出しているが、彼らが活躍していた時期はポーランドはロシアとプロシアによって併合されて国が消滅していたので、彼らはフランスに亡命してパリで活動をしている。そして、ポーランドに帰ることなくパリで亡くなっている。