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呉にある「大和ミュージアム」を訪れた

 

 

 

2011年11月に広島県呉市にある「大和ミュージアム」を訪れた。僕は小学生の時に広島に住んでいて呉に家族で来たことがあるから、呉に来るのは2回目だった。呉に来る理由は軍港町なので日本海軍関係の史跡があるから。

 

 

僕は2011年11月に生まれ故郷である愛媛県松山市を訪れた時に、広島と広島の近くの呉も訪れた。先にも書いたが父が全国に転勤がある大手銀行勤務だったので、小学校3年生6月から5年生1月までは広島市内にも住んだことがあった。広島市内西部に住んでいた時の小学校5年生4月に、呉に日帰りで家族旅行にも行ったことがある。だから、呉を訪れるのはこれで2回目ということになる。

 

 

呉のホテルに泊まって、徒歩で「大和ミュージアム」に行ってみた。館内に入って驚いたのは、若くて美しい女性が案内係として勤務していることだった。恐らく現地の呉市広島市で採用されたのだろうが、僕はかつて広島に住んだことがあるから広島の女性は美人でおしゃべりな女性が多いことを知ってるが、若い女性が制服を着て戦艦博物館の係員をしているのには驚いた。上の写真は博物館内の戦艦大和の模型を上から撮影したものである。

 

僕は小学生の時から軍艦の模型を作っている軍事オタクだから日本海軍の歴史に詳しいので、戦艦大和はあまり活躍せずに最も活躍したのは航空機を積んだ空母ということを知っていた。だから、ガイドのおじさんに「『空母ミュージアム』を建てた方が良かった」などと言った。

 

 

それで、僕のように小学生1年生の頃から日本海軍軍艦の模型を作っていたような筋金入りの日本海軍マニアには、若い女性のガイドさんと戦艦大和について話をしても合うわけがないと思ったので、大和の大きな模型の近くにいた年配のおじさんのガイドに次のようなことについて話した。

 

戦艦大和日本海軍にとってはとっておきの武器なので、ミッドウェイ海戦マリアナ沖海戦に出撃したが実戦には参加せずに終わり、やっと昭和19年10月のレイテ沖海戦で本格的な海戦に参加した。だが、既に日本海軍が主力空母を失った後の海戦だったので、米海軍の護衛空母を撃沈した程度の戦果で終わり、最後は「戦艦大和を出さずに敗戦を迎えた」のではカッコ悪いので、航空隊の援護をつけずに沖縄への片道特攻作戦という自殺行為同然の作戦で、九州南部の近くで沈んだ。つまり、思ったほど活躍しなかった。

 

戦艦大和と姉妹艦の武蔵は日本海軍が運用するにはあまりにも巨大すぎる軍艦であり、46センチ砲を9門備えていたが、大砲の口径は大きくなるほど命中精度と確率は下がるので、むしろ、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの38センチ砲の方が命中精度は良くて、イギリス海軍戦艦フッドを轟沈して、プリンス・オブ・ウェールズを大破させた。大和の46センチ砲は米海軍の護衛空母2隻を沈めただけだった。戦艦大和は確かに世界的に人気がある戦艦ではあるが、日本海軍が真珠湾攻撃を大成功させたことで、「空母部隊の爆撃機の攻撃で戦艦は沈む」ということを証明してしまったので、太平洋戦争の間は戦艦大和の出番は大してなかった。日本海軍で最も敵の軍艦を沈めたのは空母翔鶴と瑞鶴であり、ミッドウェイ海戦で沈んだ赤城、加賀、飛龍、蒼龍も大活躍したから、むしろ「大和ミュージアム」を建てるよりも、「空母機動部隊ミュージアム」を建てた方が太平洋戦争の日本海軍の活躍を伝えることができたのではないか?

 

こういう話を僕が博物館ガイドのおじさんにすると、おじさんは「確かに大砲の口径が大きくなればなるほど照準は合わせにくくなるし、大和の照準設備は連合軍よりもかなり旧式だったからね」と言って、頷いて聞いていたけど10分くらい話をすると、「今、携帯にメッセージがあって事務所で呼ばれてるから」と言って事務所に帰ってしまった。やはり、僕のような妙に第二次大戦に詳しい軍事オタクというのは、博物館ガイドの人にとってはちょっと迷惑なのかもしれない。(苦笑)

 

 

映画「男たちの大和」を見た人ならわかると思うが、大和の沖縄への水上特攻は成功しないということが若い乗組員にもわかっていた。しかし、「帝国海軍の象徴といえる大和にふさわしい死に場所を」という考えから水上特攻は行われた。

 

 

上の写真は大和にも搭載されていた対空機関銃として使われた25ミリ機関銃であるが、映画「男たちの大和」を見た人ならわかると思うが、日本海軍の対空機銃と高角砲というのはアメリカ海軍のようにVT信管は採用されておらず、またレーダー照準装置もなかったので昭和16年の開戦の頃と同じように目視で照準して米軍機を狙うしかなかった。だから、大和が沈んだ昭和20年4月に起こった「坊ノ岬沖海戦」でも、数百機の敵機が来襲したが撃墜できた敵機は13機だけである。航空機の援護がない戦艦大和の水上特攻で大和が九州付近で沈むだろうということは、ほとんどの海軍提督にはわかっていたことだった。しかし、当時でもまだ「戦艦の方が空母よりも強い」と信じていた艦隊派の神重徳大佐などは、「成功の可能性は五分五分だ」と主張していた。

 

 

大和ミュージアム」に入る前は知らなかったが、零戦62型と特殊潜航艇も展示されていた。戦艦大和の大きな模型だけでなくて、海軍の他の兵器も展示されていたので入場料に見合う展示がされてると思った。

 

 

 

写真上は「大和ミュージアム」に展示されてる零戦62型と特殊潜航艇「海龍」である。戦艦大和があまり実戦で活躍できなかったという事実を知っていた僕にとっては、零戦の方が興味深い展示物だったかもしれない。零戦62型は真珠湾攻撃からソロモン諸島を巡る戦いまで活躍した零戦21型に防弾を施して、250キロ爆弾の搭載を可能にした改良型だが、同盟国であるドイツ空軍のメッサーシュミットBf109E型が1940年夏に行われた英国本土航空戦の後に改良がなされて、1945年のドイツ本土防空戦の時には後継型のBf109G型が連合軍航空機と互角の空中戦を戦ったことに比べると、零戦は21型と62型でもあまり変化がなかった。日本の場合はエンジンの性能を改良することができなかったので、結局、昭和20年に連合軍戦闘機に勝てる戦闘機が作れなかった。

 

下の特殊潜航艇「海龍」は終戦までに何隻かが日本近海で連合軍軍艦を探して作戦行動を行ったが、実際に敵艦と戦った記録はない。多くの特殊潜航艇は昭和20年10月に行われると予想された本土決戦のために、日本各地の海軍基地に温存されたままで終戦を迎えた。

 

最後に、大和ミュージアムでガイドをしていた若い女性と話をしたけど、彼女は「ここのミュージアムに勤務している女性ガイドは、みんな太平洋戦争での戦艦大和日本海軍の戦いについて、ある程度教育は受けてます。でも、お客様ほど詳しい人の知識にはついていけませんね」と笑って言った。また、僕が東北の仙台在住だけど、父が銀行員で転勤族だったので広島市内に子供の頃に住んだことがあるという話を聞くと、やはり驚いていた。(笑)