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日本陸軍はなんでまともな戦車を作れなかったのか?土浦武器学校の三式戦車を見た。

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旧日本陸軍の日中戦争と第二次大戦時の主力戦車は、九七式戦車とこの戦車を少し改良した九七式戦車改だった。しかし、この戦車では中国軍には勝てても、米英連合軍の強力な戦車には歯が立たなかった。日本陸軍は新しい戦車を開発しなければならなかった。

 

 

上の写真は靖国神社の遊就館に展示されている、第二次大戦での日本陸軍の主力戦車だった九七式戦車である。この戦車とこの戦車を少し改造した九七式戦車改が第二次大戦時の日本陸軍の主力戦車だった。開戦から終戦までこの戦車が日本陸軍の主力戦車として、太平洋と中国ビルマの各戦線で連合軍と戦った。

 

主砲は九七式が57ミリ短砲身であり、九七式改が47ミリ長砲身である。しかし、開戦と同時に日本軍はフィリピンとマレー半島に上陸して米英軍と戦ったが、57ミリ短砲身では米軍のM3軽戦車、英軍のマチルダ中戦車の装甲を撃破することができず、日本軍はジャングルという地形を活かして、歩兵が敵戦車に近づくという近接攻撃か戦車の体当たりで米英軍の戦車をやっと撃破できた。また、開戦当初は東南アジアでは日本軍が制空権を握っていたので、これを活かして陸軍航空隊の爆撃で敵の戦車を撃破できた。

 

それが、昭和17年8月以降のガダルカナル島などのソロモン諸島の戦いになると、制空権制海権ともに連合軍が握っていたので、航空隊が空から地上部隊を支援できなくなり、ガダルカナル島では日本軍の戦車は強力な米軍戦車に次々と撃破された。この悲惨な状況がソロモン諸島の戦いから昭和20年8月の敗戦まで、サイパン、フィリピン、ビルマ、沖縄などで続いた。日本軍の九七式戦車では、連合軍の戦車と正面から撃ち合って勝てなかったのである。

 

 

日本陸軍は第二次大戦で連合軍と戦うようになってから、同盟国のドイツ軍の戦車のデータを参考にして新しい戦車を開発して、昭和18年末に三式戦車の生産を開始したが、昭和20年3月になっても50両ほどしか生産できなかったので、全車が本土決戦のために温存された。

 

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それで、この動画は僕が11月12日に陸上自衛隊土浦駐屯地であった創設記念開放日の時に、駐屯地内に展示されている日本陸軍の八九式戦車と三式戦車を撮影した動画である。奥にサムネの奥に映っている八九式戦車は九七式戦車の前のタイプの戦車であり、日中戦争では中国軍がロクな対戦車兵器を持たず、日本陸軍よりも弱かったこともあり、また、西住大尉の有名な戦いぶりなどもあって、中国軍を相手にかなり戦果を挙げた。しかし、やはり、第二次大戦で連合軍の強力な戦車に歯が立たなかった。

 

手前の三式戦車は強力な連合軍の戦車に対抗するために昭和18年から生産が始められた戦車だが、昭和20年3月の時点でもやっと55両しか生産されてないという状況だったので、制海権も制空権も米軍に取られた沖縄に輸送することは見送られて沖縄の後に起こると予想されていた本土決戦のために全車が温存された。日本軍は三式戦車以外にも、その前のタイプの一式戦車も本土決戦のために全車を温存している。

 

要するに日本は島国であったので、第二次大戦で連合軍と戦うためにはまず軍艦、輸送船、航空機を生産せねばならず、軍事的に見て戦車は優先度が低かったので後回しになってしまった。その結果、米英軍の戦車とまともに戦える戦車は大量生産することが出来なかった。

 

ここまで述べてくればわかるように、日本陸軍が同盟軍のドイツ軍のような強力なティガー、パンター戦車のような連合軍戦車と互角に戦える戦車を生産できなかったのは、日本は島国なので限られた資源をまず海軍の軍艦、輸送船、飛行機に使わねばならず、海軍が軍艦と軍用機を十分に生産した残りの物量が陸軍に割り当てられて、陸軍はやっと戦車を生産する物量を確保できたからである。

 

一方のドイツ軍はヨーロッパ大陸の真ん中にある陸軍国だから、まずは戦争に勝つためには陸軍の強化が必要だったので、強力な戦車を優先して作ることができたのだった。その一方でドイツは海軍はすごく弱くて、日本とは全く逆で海軍には十分な物資が割り当てられずに冷遇されていたから、連合軍に対してUボート(潜水艦)を中心とした通商破壊作戦を行うしかなかった。強力な米英海軍相手に、日本海軍のような空母と戦艦を主力とした海戦を挑むことはできなかった。

 

だから、1940年9月に日本、ドイツ、イタリアの間で三国軍事同盟が結ばれた理由は、お互いの欠点を補い合うという目的があった。つまり、日本陸軍はドイツ陸軍から戦車戦の方法を教えてもらい、ドイツ海軍は日本海軍から海戦の方法を教えてもらうということである。だが、2国があまりにも離れていたので、それがあまり機能しなかったのは第二次大戦の結果を見ればよくわかると思う。