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6月23日は沖縄戦が終わった日だが、沖縄の悲劇は牛島中将だけのせいではない。

 

今日6月23日は4月1日から始まった沖縄の戦いが終わった日であるが、沖縄戦での住民戦死の悲劇を陸軍第32軍司令官牛島中将と幹部だけに負わせるのは実におかしな話である。

 

 

上の写真は東宝が昭和46年に制作した「激動の昭和史・沖縄決戦」という映画だが、まだ沖縄復帰当時に制作された映画というだけあって、かなり正確に沖縄戦を描いていた。この映画で沖縄戦の第32軍司令官である牛島満中将を演じていたのは小林桂樹であり、参謀長の長勇少将を演じていたのは丹波哲朗であり、高級参謀の八原大佐を演じていたのは仲代達也である。

 

もちろん、僕は悲惨だった沖縄戦の説明を映画だけに頼るバカ者ではなくて、沖縄戦の戦記なども何冊か読んでいる。その知識からこのブログのテーマに掲げている、沖縄戦の悲劇を第32軍の司令官である牛島中将とその部下たちだけに負わせるのはあまりにも残酷であるという事実を、説明しようと思う。

 

 

沖縄戦では海軍は本土決戦ではほとんどすることがないので、多くの軍艦と飛行機を出して戦ったが、陸軍は本土決戦に戦力を温存するために陸軍の主力部隊を沖縄に派遣しなかった。制海権と制空権を完全に米軍に取られてる状況では、兵隊を乗せた輸送船が沖縄には到達できないから。

 

 

沖縄戦をすごく簡単に説明すると、日本軍でも陸軍は沖縄戦にはあまり興味を持っていなかったが、海軍は沖縄戦に全てをかけたのだった。これは陸軍と海軍の戦い方の違いで、陸軍は昭和20年1月に防衛戦力が不足しているから姫路の第84師団を新たに沖縄に派遣しようと陸軍では一度は決めたのだったが、梅津参謀総長学童疎開対馬丸ですら沈められてしまった事実に言及して、「今、本土から沖縄へと陸軍部隊を輸送船で送っても、途中で米軍潜水艦の攻撃で現地にたどり着けない可能性が高い。第84師団は本土決戦に必要な部隊だ」と説明して、この決定を撤回させた。でも、制海権と制空権を完全人米軍に握られてる状態では、この判断は正しかったのだろう。しかも、昭和20年になるとヨーロッパでドイツ海軍がほぼ全滅してしまったので、イギリス海軍の空母、戦艦までもが沖縄攻撃に参加をしていた。こんな状態では陸軍が沖縄防衛を本土決戦のための時間稼ぎと考えたのはやむを得ないことである。

 

一方、海軍では本土決戦では軍艦には全く出番がなく、せいぜい海軍航空隊が来襲する連合軍の戦闘機、爆撃機と空中戦を行うくらいなので、連合艦隊としてはあらゆる軍艦を沖縄戦につぎ込んだ。戦艦「大和」までもが航空機の護衛もないまま沖縄に片道特攻攻撃をしたのは、そういう経緯からである。しかし、「大和」が軽巡洋艦「矢矧」などの他艦と共に九州付近で沈んでしまった事実を見て、日本海軍は軍艦による特攻攻撃は諦めて、その後は航空機による神風攻撃を特に九州南部の基地から行わせた。日本海軍航空隊と陸軍航空隊による特攻攻撃は確かに米英連合軍の海軍に大きな損害を与えたが、米英連合軍は20隻近くの正規空母沖縄本島を包囲しており、数隻が損傷を受けても作戦実行に困る損害にはならなかった。

 

沖縄を防衛する第32軍はペリリュー島硫黄島の戦いの時のように、沖縄本島にある高地の各地に洞窟陣地を築いて接近した米軍海兵隊に突然に射撃を浴びせるという戦い方で米軍をかなり苦しめた。しかし、米軍が昭和20年4月1日に上陸した嘉手納湾の近くにあった中飛行場(今の嘉手納飛行場)は、平坦な土地で防衛ができないとして放棄してしまった。だから、米軍が上陸した次の日にはすぐに中飛行場に米軍の航空隊が進出してきた。

 

これに激怒したのが海軍であり、「海軍は沖縄戦で大規模な航空特攻攻撃を行う予定なのに、なんで飛行場を簡単に米軍に占領させたのか?沖縄の制空権が連合軍に取られたら特攻作戦が行えないではないか?すぐに総攻撃をかけて奪回してほしい」と陸軍に要求した。しかし、陸軍側は初めから硫黄島のように洞窟陣地に籠って戦う方針だったから、「今更せっかく築いた防衛陣地を捨てて、米軍にやられるのは目に見えてるのに攻撃には出られない」と反論した。しかし、海軍側が何度もしつこく要求してきたので、5月3日から総攻撃を開始して一時は米軍を混乱させたが、圧倒的な火力と戦力を持つ米軍は、ロクな戦車などの装甲車両を持たずに歩兵の銃剣突撃が主流の日本軍の攻撃を次第に圧倒して沈黙させて、3日後には日本軍の反撃は終わりとなった。

 

沖縄本島南部で一般市民も含めた集団自殺が頻繁に起こったのは日本陸軍首里から本島南部へと撤退した5月末以降であり、既に日本軍には組織的に戦える力がなかった。

 

その後、5月21日に首里防衛が不可能となったので、日本軍は喜屋武半島へと撤退させることになったが、10万人ほどの住民も日本軍に付いてきてしまったため、ここで、6月23日に軍司令官の牛島中将と参謀長の長少将が自決するまでに、日本軍による沖縄住民への自殺の強制などが行われた。この悲惨さはサイパン島での住民の集団自殺と同じような悲惨さだった。これは元々「生きて虜囚の辱めを受けず」という東條英機が作成した軍人向けの戦陣訓を、一般市民にも強制したからである。

 

しかし、硫黄島では住民の数が少なかったから、栗林中将はあらかじめ住民をみんな本土へと疎開させて純粋に日本軍対米軍の戦いとなったが、硫黄島にももし住民が1万人ほどいたら、栗林中将でもやはり住民の自殺は止められなかったと思う。だから、沖縄戦の住民の集団自殺の責任を、第32軍の牛島中将とその部下だけに押し付けるのは酷なことだと思うのである。

 

 

アメリカ軍の視点では沖縄の日本陸軍の戦いは高く評価されており、司令官の牛島中将は10人の優秀な日本陸軍の将軍の一人に選ばれている。

 

 

ちなみに、米軍側から見た牛島中将と第32軍司令部の評価はとても高くて、「沖縄本島の狭い地域の占領に米軍は2か月半もかかり、損害もかなり多かった。牛島中将は日本陸軍の将軍の中では、10人以内に入る優秀な戦術家である」と評している。