Deutschland-Lab

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米英と開戦するよりもソ連をドイツと共に攻める方が良かったのでは?

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日本が真珠湾攻撃をして米英と開戦した時、ヨーロッパではナチスドイツ軍の快進撃が続き、フランス、オランダなどは既に降伏していて、ソ連もドイツ軍に攻められて首都のモスクワで攻防戦をしていた。

 

 

昨日は12月8日で真珠湾攻撃の日だったので、日本が第二次世界大戦に参戦したことについて書こうと思います。


右翼寄りで「日本は凄い」というマスコミの中には、恐らく、中途半端にしか戦記を読まず、中途半端にしか大日本帝国陸海軍の武器、高級将校などの特徴を知らない“自称評論家”の方々が登場して色々と言ってるようだけど、僕はどの意見にも同意できない。
「アメリカ、イギリス連合軍とのガチンコの戦争に勝つには・・・」
「いや、米英連合軍とどのように戦っても勝てるわけがないから、その前の外交の時点ですでに負けていた。ルーズベルトとチャーチルのワナにはまったのだ」
などというのは、もう聞き飽きた意見なので面白味がない。そこで、僕はちょっと変わった視点から意見をする。写真上はナチスドイツ軍がソ連に攻め込む前、1941年春のヨーロッパの戦況。ほとんどがナチスドイツの味方か占領地であり、この地図を見れば「ナチスドイツがヨーロッパでの戦争に勝つ」と判断するのは当たり前と言える。


そもそも、大日本帝国が米英により追い詰められて真珠湾攻撃に至った過程を、よくよく考えてもらいたい。1941年当時、イギリスはナチス・ドイツ軍の攻撃を受けてアップアップの状態だった。フランスはすでに降伏して共産主義のソ連を政治体制の違いにかまわず援助していたが、ソ連も同様にドイツ軍の電撃戦により追い詰められていた。そして、ロンドンを始めとするイギリス南部の都市はドイツ空軍の空襲で破壊されつつあった。

 

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写真上は日独伊三国同盟が結ばれた時の様子。左から日本の来栖全権大使、ドイツのヒトラー、イタリアのチアノ外務大臣で場所はベルリンのヒトラー総統官邸。

 

苦境にあったイギリス首相のチャーチルはアメリカのルーズベルト大統領に、ドイツの同盟国の日本を挑発して戦争に引きずり込むように頼んだ。日本が攻撃してくれば、アメリカ国民の世論も参戦に傾くからである。


そこで、イギリス首相のチャーチル内閣が考えたのは、ドイツの同盟国である大日本帝国を刺激、挑発して日本を戦争に引き込み、それにより、巨大な軍事力と資源を持つアメリカの参戦を確実なものにしようという外交政策だった。アメリカの参戦のためにこのような外交をしなければならなかったのは、第二次大戦が1939年9月に始まってフランスが翌年6月に降伏したのに、アメリカ国民の多くが参戦に反対していたからである。


アメリカ国民の過半数以上はイギリス、ソ連が追い詰められていても、参戦には反対だった。
「たとえ、イギリスがドイツ軍に占領されても、中国が日本軍に占領されても、アメリカがそんなに困ることはないし、共産主義のソ連を助けるために税金を使うのは愚の骨頂なので、アメリカは新大陸(北米、南米、オセアニアなど)のリーダーとして繁栄できればそれで満足。旧大陸(ユーラシア大陸)の戦争にアメリカ軍が参加するべきではない。多くの若者たちが、他国のために戦死するのはおかしい」
というのが、多くのアメリカ人の考えだったようである。


このアメリカ国民の意見を180度転換させたのが、真珠湾攻撃だった。
「有色人種の日本人が宣戦布告もなしに、突然、米軍基地を攻撃した。黄色いサルがアメリカを占領しようとしている!アメリカ人は断固戦うぞ!」
という意見が、アメリカでは主流になった。ちなみに、2001年9月11日のテロ攻撃の後もアメリカでは、
「テロリストどもは真珠湾攻撃のように、何の警告もなしに攻撃をしかけきた」
と報道されたようである。


だが、この真珠湾攻撃に至る過程をよく再考してもらいたい。イギリス、ソ連は、ドイツ軍の攻撃で追い詰められていたので、アメリカという巨大な国に頼ったのであり、それを逆手に取るなら、日本軍はドイツ軍との共同作戦を行うべきだったのではないだろうか?


日米開戦の前に起こった非常に興味深い事実がある。ドイツを訪問してヒトラーと会談して、さらに、ドイツ軍の卓越した電撃戦理論、機甲部隊の強さを認識した松岡洋右外相は、ドイツ軍がソ連に侵攻した直後に天皇に対して、
「日本も早くソ連と開戦するべきです。そうすれば、アメリカも何も言えなくなります」
と進言した。だが、天皇はノモンハン事件で日本軍がソ連軍に大敗してその直後に陸軍幹部が、
「ソ連軍はスターリンの指導の下に強力な軍隊を作っているので、今後はソ連軍とは戦えません」
と発言したことをよく覚えており、松岡をきつく叱ったという。その後、ソ連との開戦という意見を言う者は日本政府内ではいなくなったようだ。


しかし、その一方、ドイツ軍がソ連と開戦した直後に満州の関東軍は、「関東軍特種演習」という名目で多数の部隊をソ連国境に集結させていた。そして、スキがあらばソ連領内に攻め込むつもりだった。だが、ソ連軍の防御が堅かったので、断念したのだった。

 

米英連合軍とガチの戦争をするよりも、ドイツ軍と協同でソ連を挟み撃ちにする方が、日本にとっては戦争に勝つ可能性があったのではないのか?

 


しかし、米英連合軍との開戦と、ドイツ軍とソ連を挟み撃ちにするということの2つを、よくよく熟考してもらいたい。どちらの方が勝機があるか?普通に考えればドイツ軍に追い詰められているソ連軍と戦う方が、勝てるチャンスはあるだろう。しかも、アメリカという巨大国家を敵に回さずにすむのである。


だが、日ソ開戦というアイデアはあまりにも現実離れしていると反論する人も多いだろう。
「当時の外交状況を考えれば、日ソ開戦なんてあり得ない。東條内閣の閣議で南方進出は決まっていて天皇もそれを支持していたので、ソ連攻撃というのは仮想(火葬)戦記並みのプランだ」
と反論する人はいるだろう。それは、僕もよくわかっている。しかし、米英とガチンコの勝負をするか、ドイツと共同でソ連を攻撃するか、どちらの方が勝つ可能性があるかということを軍事的に考えれば、後者の方が可能性は高いに決まっている。


さらに、東條内閣で決まった「南方資源の獲得」だが、これが決まった理由もヨーロッパでのドイツ軍の快進撃のおかげであるのは言うまでもない。米英との開戦当時、東南アジアに駐留していたイギリス軍は、本土と北アフリカ防衛のために主力部隊を引き抜いていて、オランダ、フランスはすでに降伏していて、ロンドンに亡命政府がいるという状態だった。この状況を熟考した日本政府は、
「南方資源はほとんど戦わずして獲得できる」
と判断したのであり、実際、けっこう簡単に確保できた。だが、マッカーサーの率いるアメリカ軍が頑強に抵抗したフィリピンでは、日本軍はかなり苦戦した。


だから、僕がドイツ人の友達と第二次大戦について話す時には、
「日本の勝利というのは、全てがドイツの勝利に頼っていたのだよ。日本は米英と開戦したけど日本軍がハワイを占領して、さらに、アメリカ西海岸に上陸するなんていうことはあり得ないだろう?だが、ドイツ軍がロンドンとモスクワを占領する可能性はあった。マンシュタイン元帥は、『失われた勝利』という本を書いているし、第二次大戦研究で有名な軍事学者のリデル・ハート卿(イギリス人)も、『ドイツ軍が勝つ可能性は充分にあった』と著書の中で書いているから」
というふうに説明している。

 

 

開戦当時に大本営で勤務していた軍人たちも、「大日本帝国政府と軍部はナチスドイツがヨーロッパで勝つことを前提として、米英との開戦を決断した」と著書の中で書いている。

 


ちょっと話は変わるが、日本とドイツの最大の敗因というのは、ソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実一味の逮捕が遅すぎたということかもしれない。なぜなら、日本政府と軍の情報管理はあまりにも杜撰であり、ゾルゲ一味はゆうゆうとスターリンに情報を送り、
「日本軍がソ連に侵攻することはあり得ない。シベリアにいる部隊を、全部、ヨーロッパに移動させても構わない」
という、貴重な情報を知らせていたのである。これは、スパイ、暗号などを使った情報戦に対して日本軍情報部が研究不足だったからだ。


かなり、まとまりのない文章になってしまいましたが、とにかく、第二次世界大戦時の日本について語るのなら、まず、ドイツ軍の快進撃に刺激、魅了されたことから始めなければならないのは当然でしょう。だから、アメリカとガチの総力戦をするよりも、ソ連をドイツ軍と挟み撃ちにする方がマシだったでしょう。ただし、仮想(火葬)戦記の世界ですけどね。(苦笑)

ここに開戦当時、陸軍の参謀をしていた加登川幸太郎氏の書いた「ノモンハンから真珠湾まで(ヒトラーに引きずり回された日本)」という本の中の、開戦当時の回想を引用する。

予算班らしいことが書いてあるが、さあ大変だぞ、と痛感していたのだと思う。
 “七年戦争”になぞらえた日米戦争の 「夢物語」なども書いてある。
 今日、恥かしくて人に見せられるものではないが、その中で、ドイツは負けないことが、一要件となっている。
 ドイツが負けたのでは“七年戦争”も駄目になる。

開戦時の大本営参謀だった瀬島龍三氏が書いた「幾山河」という回想録にも、
「1941年当時、陸軍の将校たちは『ヒトラーのドイツ軍がイギリス軍を降伏させるのはいつだろうか?ドイツがイギリスに勝てばインドから中国への援蒋ルートも閉ざされることになり、中国は支援を失い中国での戦いは日本が有利になるだろう。これを当時、陸軍将校たちは『熟れた柿が落ちてくるのを待ってるようだ』というので、『熟柿作戦』と呼んだ」
ということが書いてある。

 

こちらが、「ノモンハンから真珠湾まで(ヒトラーに引きずり回された日本)」という本を紹介しているサイト。

 

ktymtskz.my.coocan.jp



つまり、日本が米英とガチの総力戦をした決意した時は、「ドイツがヨーロッパで勝つこと」を前提条件として開戦をしたのである。正しく、中国との戦争という泥沼からドイツ軍の力を借りて抜け出そうとしていたので、「恥ずかしくて人(国民)に見せられるものではないが」である。