
- 硫黄島守備隊司令官の栗林中将は、既に日米両軍の戦力と物量の差はとてつもなく広がっていたから正面から戦っても日本軍は勝てないと熟知していたので、日本軍守備隊全軍を地下の洞窟陣地に隠して持久戦を行うことを命令した。だから日本軍は善戦できた。
- 日本軍が硫黄島などで米軍に対して行った洞窟持久戦とゲリラ戦法は戦後は北ベトナム軍によってよく研究されて、北ベトナム軍とベトコンも同じ戦法で物量に勝る米軍を苦しめて、ベトナム戦争の勝利につながった。
硫黄島守備隊司令官の栗林中将は、既に日米両軍の戦力と物量の差はとてつもなく広がっていたから正面から戦っても日本軍は勝てないと熟知していたので、日本軍守備隊全軍を地下の洞窟陣地に隠して持久戦を行うことを命令した。だから日本軍は善戦できた。
今から80年前には硫黄島で日米両軍の激戦が行われていたので、軍事マニアとして「硫黄島からの手紙」などで映画化もされている激戦をブログに書こうと思う。
昭和19年7月にサイパン島が陥落した後の太平洋戦争の戦いは、日本軍が物量に勝る連合軍に一方的に叩かれて負けた戦いばかりが多いというイメージだが、硫黄島の戦いは米軍の死傷者の方が日本軍の死傷者よりも多かった数少ない戦いだった。その理由がウィキペディアではこう説明されている。
日本軍は対上陸部隊への戦術としてタラワの戦いなど、上陸部隊の弱点である海上もしくは水際付近にいるときに戦力を集中して叩くという「水際配置・水際撃滅主義」を採用していた。タラワ島ではこの方針によってアメリカ軍の上陸部隊の30%を死傷させる大打撃を与えたが[54]、サイパンの戦いにおいては、想定以上の激しい艦砲射撃に加え、日本軍の陣地構築が不十分であったことから、水際陣地の大部分が撃破されてしまい、上陸部隊の損害は10%と相応の打撃を与えたものの、日本軍の損害も大きく、短期間のうちに戦力が消耗してしまうこととなった[55]。このサイパン島の敗戦は日本軍に大きな衝撃を与えて、のちの島嶼防衛の方針を大きく変更させた。その後に作成されたのが1944年8月19日に参謀総長名で示達された「島嶼守備要領」であり、この要領によって日本軍の対上陸防衛は、従来の「水際配置・水際撃滅主義」から、海岸線から後退した要地に堅固な陣地を構築し、上陸軍を引き込んでから叩くという「後退配備・沿岸撃滅主義」へと大きく変更されることとなった[56][57]。
硫黄島においても、栗林が着任前には、前軍司令官の小畑の指示もあって、従来の「水際配置・水際撃滅主義」による陣地構築が行われていたが[58]、栗林は6月8日に硫黄島に着任するとくまなく島内を見て回り、硫黄島の地形的特質を緻密に検討して、サイパン島の陥落前の6月17日には、従来の「水際配置・水際撃滅主義」を捨て、主陣地を水際から後退させて「縦深陣地」を構築し、上陸部隊を一旦上陸させたのちに、摺鉢山と北部元山地区に構築する複廓陣地で挟撃して大打撃を与えるといった攻撃持久両用作戦をとることとし[59]、「師団長注意事項」として全軍に示達された[60]。
日本軍が硫黄島などで米軍に対して行った洞窟持久戦とゲリラ戦法は戦後は北ベトナム軍によってよく研究されて、北ベトナム軍とベトコンも同じ戦法で物量に勝る米軍を苦しめて、ベトナム戦争の勝利につながった。
つまり、硫黄島守備隊司令官の栗林中将(「硫黄島からの手紙」では渡辺謙が演じていた)は、既に日本軍と米軍では戦力と物量の差がとてつもなく開いていることをよく熟知しており、硫黄島守備隊のほぼ全軍を地下壕に隠して上陸前の敵の艦砲射撃と空襲によって破壊されないようにして、米軍が上陸してきたらなるべく日本軍の地下壕の近くまで引き寄せて出血を強いるという戦法をとるしかなかったのである。
そして、硫黄島の戦いはほぼ栗林が構想したとおりに進み、米軍は小さな硫黄島を占領するのに1か月以上の期間と死傷者26000人を要したのだった。米軍は日本軍が洞窟、地下陣地に隠れて攻撃には出てこずに徹底的に持久戦を行ったので、火炎放射器と手榴弾で一つ一つの陣地を潰していくしかなかった。
ちなみに、この圧倒的な物量を持った米軍に対する洞窟陣地による持久戦は、戦後に北ベトナム軍によってよく研究されて、ベトナム戦争で北ベトナム軍とベトコンも米軍に対して洞窟持久戦を行って米軍に出血を強いて、米軍をベトナムから撤退に追い込んだのだった。